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【ミヒャエル・エンデおすすめ本】モモから大人向け幻想文学まで6選

ミヒャエル・エンデを読むなら、まずは『モモ』と『はてしない物語』で物語の核に触れ、その後に大人向けの幻想文学へ進むと作風の広がりが見えやすい。時間、想像力、自由、欲望、迷宮。子どものころには冒険に見えたものが、大人になって読むと生活の奥にある問いとして戻ってくる。

読む目的別の入り口

エンデは「児童文学の作家」とひとことで片づけるには、かなり奥行きのある作家だ。最初から難しい幻想短編へ入るより、まずは物語の足場を作ってから深い場所へ降りていくほうが読みやすい。

ミヒャエル・エンデはどんな作家か

ミヒャエル・エンデは、1929年にドイツで生まれた作家だ。画家の父を持ち、演劇や芸術に近い環境で育った。代表作としては『モモ』と『はてしない物語』が広く知られているが、エンデの作品は単に「子どもが読むファンタジー」では終わらない。むしろ大人になってから読み返すほど、物語の底に沈んでいる問いが濃くなる。

エンデの作品には、時間、名前、欲望、貨幣、自由、想像力といったテーマが何度も姿を変えて現れる。しかも、それらは説教として語られない。灰色の男たち、ファンタージエン、鏡の迷宮、相続をめぐる舞台。どれも一見すると不思議な設定だが、読み進めるうちに、こちらの日常のほうが少し不思議に見えてくる。

たとえば『モモ』は、忙しさに追われる社会への批評として読める。『はてしない物語』は、空想の世界へ逃げる話ではなく、想像力をどう現実へ持ち帰るかを問う物語だ。そして『自由の牢獄』や『鏡のなかの鏡―迷宮』に進むと、エンデの幻想はさらに静かで、暗く、出口のわかりにくいものになる。

だから、読む順は大切だ。いきなり『鏡のなかの鏡―迷宮』から入ると、霧の濃い部屋にひとりで置かれたように感じるかもしれない。けれど『モモ』と『はてしない物語』を先に読んでおくと、エンデが何を信じ、何を疑い、どこへ読者を連れていこうとしているのかが見えやすくなる。

子ども時代に読んだ人は、懐かしさだけで戻らなくていい。大人になった今読むエンデは、もっと静かで、少し怖く、けれど妙に温かい。仕事の時間、家族との時間、自分のための時間。そういうものをいつの間にか差し出してしまった感覚があるなら、エンデの本は思ったより近い場所に刺さる。

ミヒャエル・エンデのおすすめ本6選

1.モモ(岩波書店/岩波少年文庫)

ミヒャエル・エンデをこれから読むなら、最初の一冊はやはり『モモ』がいい。代表作だからというだけではない。エンデの物語が持っているやわらかさと怖さ、児童文学としての読みやすさと、大人になってから胸に沈む問いが、いちばん自然な形で入っているからだ。

物語の中心にいるのは、古い円形劇場の跡に住みついた少女モモだ。モモには特別な魔法があるわけではない。ただ、人の話をよく聞く。相手が自分でも気づいていなかった言葉にたどり着くまで、急かさず、遮らず、そこにいる。その静かな力が、街の人たちの生活を少しずつ変えていく。

けれど、そこへ灰色の男たちが現れる。彼らは人々に「時間を節約する」ことをすすめる。無駄なおしゃべりをやめ、遊びを減らし、親切を省き、効率よく暮らせば、未来のために時間を貯められる。言葉だけを見れば、どこか正しい。だから怖い。灰色の男たちは怪物としてではなく、私たちが毎日少しずつ受け入れている考え方として近づいてくる。

この本が大人に刺さるのは、忙しさをただ悪者にしていないところだ。仕事がある。用事がある。返事をしなければいけない通知がある。家の中にも、外にも、細かなタスクが積もっていく。その中で「今は立ち止まっている場合ではない」と思うことは、誰にでもある。だからこそ、灰色の男たちの言葉は遠い寓話ではなく、机の上のカレンダーやスマホの画面の光に混ざって聞こえてくる。

モモは、何かを解決するために声高に戦う少女ではない。彼女は、奪われた時間を取り戻す物語の中で、聞くこと、待つこと、そばにいることの力を示す。そこにエンデの大きな魅力がある。世界を変える力が、派手な能力ではなく、相手の沈黙を受け止める姿勢として描かれる。

子どものころに読むと、灰色の男たちとの対決や、時間の花のイメージが強く残る。大人になって読むと、もっと手前の場面で立ち止まる。友人とのどうでもいい会話を短く切り上げたこと。誰かの話を聞くふりだけして、頭の中で別の予定を計算していたこと。休む時間にすら、意味や成果を求めてしまったこと。そういう小さな生活の癖が、物語の中で静かに照らされる。

疲れている夜に読むと、少し苦いかもしれない。自分も時間を失っている側だと気づかされるからだ。ただ、その苦さは責めるものではない。『モモ』は「もっと丁寧に生きなさい」と命令する本ではなく、「あなたの時間は本当にあなたのものか」とそっと尋ねる本だ。その問い方がやさしいから、読み終えたあとに少しだけ呼吸が深くなる。

エンデの作品一覧の中でも、『モモ』は入口として強い。物語として読みやすく、象徴もわかりやすい。それでいて、大人が読んでも薄くならない。むしろ年齢を重ねるほど、灰色の男たちの姿が近くなる。最初にこの本を置くのは、エンデの世界が「遠い幻想」ではなく「今の生活のすぐ隣」にあるとわかるからだ。

読み終えたら、少しだけ予定のない時間を作りたくなるかもしれない。誰かとただ話す時間でもいいし、何もしないでお茶が冷めるのを眺める時間でもいい。『モモ』の読後に残るのは、感動の大きさよりも、そういう生活の小さな取り戻し方だ。

2.はてしない物語 上(岩波書店/岩波少年文庫)

『モモ』でエンデの時間感覚に触れたら、次は『はてしない物語』へ進みたい。上巻は、少年バスチアンが一冊の本と出会い、ファンタージエンという世界へ引き込まれていく物語の前半にあたる。読書という行為そのものが、ここではただの趣味ではなく、世界を動かす入口になる。

バスチアンは、現実の中で強い子どもではない。自信がなく、居場所がなく、学校でも家庭でもうまく自分を出せない。そんな少年が本屋で一冊の本を手にし、物語の中に入っていく。この導入には、読書好きなら一度は覚えのある感覚がある。外の世界が重くて、ページの中だけが自分を受け入れてくれるような時間だ。

上巻で印象に残るのは、ファンタージエンの美しさだけではない。世界が「虚無」によって失われていくという設定が、静かに怖い。敵が剣を持って襲ってくるのではなく、物語そのものが消えていく。名前が失われ、存在がほどけ、想像できる場所がなくなっていく。その怖さは、現実の生活にもつながっている。

忙しさや合理性の中で、想像する余白が削られていくことがある。役に立つ言葉だけを選び、すぐに説明できるものだけを信じ、意味のわからない夢や空想を切り捨てる。そうしているうちに、世界は平らになる。『はてしない物語』の虚無は、ただのファンタジー上の災厄ではなく、想像力を軽んじた場所に広がる空白のように読める。

上巻の読みどころは、アトレーユの旅にもある。彼は幼ごころの君を救うため、広い世界を歩いていく。そこには冒険の高揚があるが、単純な勇者の物語ではない。行く先々で出会う存在は、どこか象徴的で、少し冷たい。美しい場面の奥に、失われていくものの気配が漂う。ページをめくる手は軽いのに、胸の奥には少しずつ重みがたまる。

『はてしない物語』は映画化でも知られるが、原作を読むと、物語の手触りはより深い。映像的な冒険だけでなく、「読む者」と「読まれる世界」の関係が大きな柱になっているからだ。本を読んでいるはずのバスチアンが、いつの間にか物語に呼ばれている。その境目の揺らぎが、エンデらしい。

上巻は、現実からファンタージエンへ向かう入口の本だ。だから、まだ物語には「救われたい」という感覚が濃い。日常に疲れて、どこか遠い場所へ行きたいと感じるときに読むと、バスチアンの逃げ込み方がよくわかる。けれどエンデは、逃げることを単純には責めない。人は一度、物語の力を借りなければ自分を立て直せないことがある。

この上巻だけでも、十分に大きな読書体験がある。ただし、ここで止まると『はてしない物語』の半分しか受け取れない。上巻は、想像力が世界を救う物語として読める。けれど下巻では、その想像力が別の形で読者を試す。だから、上巻を読み終えたときの高揚を持ったまま、下巻へ進むのがいい。

読み終えたあと、子どものころに好きだった物語や、忘れていた空想の場所を思い出すかもしれない。けれどそれは懐古ではない。エンデは、想像力を過去のものとして描かない。今の自分が世界をどう見るか、その力として物語を差し出している。

 

3.はてしない物語 下(岩波書店/岩波少年文庫)

下巻に入ると、『はてしない物語』の印象は少し変わる。上巻が、物語に呼ばれていく少年の冒険だとすれば、下巻は、物語の中で力を得た少年が、その力をどう扱うのかを問われる本だ。ここから先は、ただ夢の世界へ行けてよかった、では済まなくなる。

バスチアンはファンタージエンで望みをかなえていく。弱かった自分、美しくなかった自分、認められなかった自分を変えていく。読んでいて、その気持ちはよくわかる。誰かに軽く見られた記憶や、自分の嫌な部分を消したい気持ちは、子どもだけのものではない。大人になっても、別の姿でずっと残っている。

けれど、願いはただ人を自由にするわけではない。望みがかなうほど、バスチアンは何かを失っていく。力を持つこと、評価されること、特別な存在になること。その甘さの中で、彼は少しずつ自分の本当の記憶から離れていく。下巻の怖さはここにある。空想の世界は救いにもなるが、自分を見失う場所にもなる。

この展開があるから、『はてしない物語』は単なるファンタジーの名作では終わらない。想像力を肯定しながら、想像力に閉じこもる危うさも描く。物語は現実からの避難所になりうるが、そこに住みついてしまうと、帰る道を失う。エンデはその境目を、子どもにも読める冒険の形で書いている。

大人が読むと、バスチアンの欲望は少し身につまされる。もっと見られたい。もっと認められたい。もっと違う自分になりたい。仕事や人間関係の中で、そんな願いは形を変えて湧いてくる。SNSの画面を閉じたあと、誰かの評価に自分の輪郭を預けすぎていたと気づくような夜に、この下巻は妙に響く。

上巻で広がったファンタージエンの美しさは、下巻ではより複雑な場所になる。美しいもの、楽しいもの、力をくれるものが、必ずしも人を正しい方向へ運ぶとは限らない。むしろ甘い夢ほど、人はそこに長くいたくなる。だからこそ、バスチアンが何を取り戻すのか、何を手放すのかが大切になってくる。

『はてしない物語』を上下巻で分けて読む意味は、この変化を味わえるところにある。上巻では本に入っていく喜びがあり、下巻では本から帰ってくる難しさがある。読書は逃避ではない、と簡単に言うこともできる。けれどエンデはもっと丁寧だ。逃げることも必要だと認めたうえで、ではその後どう現実へ戻るのかを描く。

この本は、何かに夢中になりすぎて、自分の生活が少し遠くなっている時に刺さる。趣味でも、仕事でも、承認でも、理想の自分でもいい。夢中になれるものは人生を支えるが、それが自分を飲み込む瞬間もある。下巻のバスチアンは、その境目で揺れている。

読み終えたあとに残るのは、冒険を終えた満足だけではない。物語を読むとは、現実を忘れることではなく、現実へ戻る力を少し変えることなのだと感じる。『モモ』が時間を取り戻す本なら、『はてしない物語』は想像力を取り戻し、それを現実へ返す本だ。この二作を読めば、エンデの代表作の芯はかなり見えてくる。

 

4.自由の牢獄(岩波書店/岩波現代文庫)

『モモ』と『はてしない物語』を読んだあと、エンデの大人向けの世界へ入るなら『自由の牢獄』がいい。ここからは、物語の光が少し弱まり、かわりに影の濃さが増してくる。子どもにも開かれた大きな物語から、ひとりの内面に深く沈んでいく短編の世界へ移る感覚がある。

本書は短編集だ。ひとつひとつの物語は独立しているが、どれも「自由とは何か」という問いを、正面からではなく、奇妙な部屋や閉ざされた状況の中で見せてくる。自由は、外へ出られることなのか。選択肢が多いことなのか。誰にも命令されないことなのか。それとも、選べるはずなのに選べなくなる心の状態こそが牢獄なのか。

エンデの幻想は、ここではかなり静かだ。派手な魔法や冒険よりも、閉じた空間、ねじれた論理、不意に足場が消えるような感覚が強い。読んでいると、明るい部屋にいるはずなのに、窓の外だけが妙に暗い。そんな心細さがある。けれど、ただ暗いわけではない。文章の奥には、世界をもう一度見直そうとする澄んだ視線が残っている。

『自由の牢獄』は、自由を明るい言葉として扱わないところがいい。現代の生活では、自由はよいものとして語られやすい。好きな働き方、好きな生き方、好きな選択。けれど、選べることが増えたからといって、人は必ず楽になるわけではない。むしろ選択肢の多さに押しつぶされることもある。自分で選んだはずの道が、いつの間にか自分を閉じ込めることもある。

この本が刺さるのは、何を選んでも落ち着かない時だ。仕事を変えるべきか、続けるべきか。人間関係を断つべきか、向き合うべきか。自由に選べるはずなのに、どの選択肢にも薄い不安が貼りついている。そんな状態で読むと、短編の中の奇妙な牢獄が、自分の頭の中の構造に似て見えてくる。

ただし、最初の一冊には向かない。エンデの代表作を知らずに読むと、幻想の意味をつかむ前に、抽象性のほうが勝ってしまうかもしれない。『モモ』や『はてしない物語』でエンデの根にあるやさしさを知ってから読むと、この本の冷たさの奥にある温度がわかりやすくなる。

短編集なので、一気に読み切るより、ひとつ読んで少し間を置くほうが向いている。夜、部屋の音が小さくなった時間に読むと、物語の余白が残る。読み終えたあとすぐに感想を言葉にしようとすると、かえって逃げてしまうものがある。少し黙っていたくなる本だ。

『自由の牢獄』は、大人向けエンデの核になる一冊だと思う。子どものころに読んだエンデが、ただ懐かしい作家ではなかったと気づかせてくれる。自由を求めているつもりで、実は自分で作った部屋の中を歩き回っているだけではないか。そう問われると、少し背筋が冷える。

けれど、その冷たさは悪くない。自分を閉じ込めているものに気づくには、時々こういう物語が必要になる。『自由の牢獄』は、答えをくれる本ではない。むしろ、答えだと思っていたものの輪郭を少し崩す。その崩れ方に、大人になってから読むエンデの深さがある。

5.鏡のなかの鏡―迷宮(岩波書店/岩波現代文庫)

『鏡のなかの鏡―迷宮』は、エンデの中でもかなり読む人を選ぶ一冊だ。わかりやすい物語の筋を追いたい時には、少しつらいかもしれない。けれど、エンデの幻想文学としての深さを味わいたいなら、この本は避けて通れない。

連作短編集の形をとっているが、普通の短編集だと思って読むと足を取られる。ひとつの物語が終わったと思うと、別の物語の中にその影が映る。人物、場所、イメージ、問いが、鏡に映った像のようにずれて現れる。明確な出口に向かって進むというより、いつの間にか同じ場所へ戻ってきたような感覚がある。

この本では、物語は説明のために存在していない。むしろ、説明できないものをそのまま立ち上げるためにある。夢の中で見た建物の廊下、誰もいない広場、どこかに通じているはずなのに開かない扉。そういうイメージが、意味になる一歩手前で読者を待っている。

だから、『鏡のなかの鏡―迷宮』を読む時は、無理に解釈しすぎないほうがいい。すべてを整理しようとすると、物語の湿度が消えてしまう。わからないまま進む。さっきの場面が次の場面にかすかに反射するのを感じる。読書というより、薄暗い美術館を歩く感覚に近い。

この本には、父エドガー・エンデの絵画的な世界とも響き合うようなところがある。視覚的で、象徴的で、少し不穏だ。エンデの文章は、ここでは物語を運ぶ道具というより、像を浮かび上がらせる光のように働く。ページの中にあるのは、はっきりした答えではなく、見ているうちに形を変える影だ。

『モモ』や『はてしない物語』の読者がこの本へ来ると、少し驚くと思う。あの親しみやすさは薄くなり、かわりに、夢の奥にある不条理や孤独が前に出てくる。だが、まったく別の作家になったわけではない。時間や想像力、自己の揺らぎというテーマは、ここでも続いている。ただ、語り口がより迷宮的になっている。

この本が刺さるのは、日常の言葉では自分の感覚をうまく説明できない時だ。悲しいのか、不安なのか、懐かしいのか、自分でもよくわからない。そういう曖昧な心の状態に、物語のほうが先に形を与えてくれることがある。『鏡のなかの鏡―迷宮』は、まさにそのための本だ。

ただし、疲れ切っている時には重いかもしれない。読むには、少し余白がいる。電車の中で急いで読むより、静かな時間に数編ずつ読むほうが合っている。ページを閉じたあとも、物語の断片が頭の中でつながったり離れたりする。その落ち着かなさを楽しめる時に読むといい。

この本を後半に置くのは、エンデの世界に慣れてから入ったほうが、迷いやすさも含めて味わえるからだ。代表作のあとに読むと、エンデが子どものためだけに物語を書いていたわけではないことがよくわかる。むしろ彼は、子どもにも届く形で深い問いを書ける作家であり、大人向けにはその問いをさらに解きほぐさずに差し出せる作家だった。

読後に残るのは、すっきりした理解ではない。夢から覚めた直後のような、何かを見たのに説明できない感触だ。それを物足りないと感じる人もいるだろう。けれど、その説明できなさこそが、この本の中心にある。『鏡のなかの鏡―迷宮』は、物語に答えを求める読者ではなく、物語の中で迷うことを受け入れられる読者に開く本だ。

6.遺産相続ゲーム―地獄の喜劇(岩波書店/岩波現代文庫)

最後に置きたいのが『遺産相続ゲーム―地獄の喜劇』だ。『モモ』から入った読者には、かなり違う顔のエンデに見えると思う。ここにあるのは、時間を奪われた街でも、ファンタージエンの冒険でもない。遺産をめぐる人間たちの欲望を、戯曲的な形で見せる、少し毒のある作品だ。

莫大な遺産をめぐって、登場人物たちは動き出す。誰が何を得るのか。誰が誰を出し抜くのか。表面上は喜劇のように進むが、その笑いの奥には、人間の欲や計算がうごめいている。エンデの作品に流れる寓話性が、ここではより舞台的に、少し意地悪な明るさを帯びている。

この本の面白さは、ファンタジーの設定でありながら、人間観察が生々しいところにある。人は、何かを得られるかもしれないと思った時、急に言葉を変える。親切そうな顔をし、正しそうな理屈を並べ、自分の欲を欲ではないものに見せようとする。そういう瞬間の滑稽さが、戯曲の形だとよく見える。

『遺産相続ゲーム』は、エンデの入門としては少し変化球だ。だから最後に読むほうがいい。『モモ』のやさしさ、『はてしない物語』の大きさ、『自由の牢獄』や『鏡のなかの鏡―迷宮』の内面的な深さを読んだあとに来ると、エンデが人間の欲望をどう見ていたのかが別の角度からわかる。

ここで描かれる欲は、単純に悪として切り捨てられない。誰かが醜いというより、状況が人の醜さを引き出してしまう。金銭、相続、権利、取り分。そういう言葉が出てきた途端、人間関係の中にあった温度が変わることがある。現実でも、家族や親族、職場、組織の中で似たような空気を感じたことがある人は少なくないはずだ。

この本が刺さるのは、人間のきれいごとに少し疲れている時だ。善意だけで物事が動くわけではないし、誰もが心のどこかに計算を持っている。そういう事実を、暗く沈み込まずに、喜劇として見せるところに作品の力がある。笑えるのに、笑ったあとで少し嫌なものが残る。その嫌な残り方がいい。

舞台作品として読むと、場面の動きや人物の言葉の強さも楽しめる。小説を読む時とは違い、登場人物たちが目の前で演じているような距離感がある。台詞のやり取りの中に、欲望の速度が出る。誰かが一歩前に出ると、別の誰かもすぐに前へ出ようとする。その押し合いが、地獄の喜劇という副題に合っている。

エンデという作家を「やさしいファンタジーの人」とだけ思っていると、この本は少し驚きがある。けれど、よく考えると『モモ』の灰色の男たちも、『はてしない物語』の願望も、人間の欲望と無関係ではなかった。『遺産相続ゲーム』は、その欲望の部分を物語の中心へ引き出した作品として読める。

読み終えたあと、人間を見る目が少し意地悪になるかもしれない。けれど、それは冷笑とは違う。人が欲に揺れることを知ったうえで、それでも人間を見続ける視線がある。エンデの作品には、きれいなものだけを信じる純粋さではなく、醜さを見たあとにも物語を手放さない粘りがある。

この本まで読むと、エンデの幅がかなり見えてくる。代表作の大きな魅力だけでなく、幻想短編、迷宮的な散文、戯曲的な寓話までつながる。『モモ』だけでは見えなかった作家の奥行きを知るために、最後の一冊として手に取りたい作品だ。

関連グッズ・サービス

エンデの作品は、急いで消費するより、少しずつ戻りながら読むほうが合っている。紙の本で手元に置くのもいいし、移動中や夜の短い時間に読書環境を整えるのもいい。

Kindle Unlimited

幻想文学や児童文学、周辺の読書案内まで広げたい時に使いやすい。エンデを読み終えたあと、近いテーマの本へ少しずつ枝を伸ばしていける。

Audible

物語の余韻を声で受け取りたい人には相性がいい。歩いている時や家事の合間に聞くと、エンデの世界が日常の音に少し混ざる。

電子書籍リーダーも、長い物語を少しずつ読むには便利だ。『はてしない物語』のような上下巻を持ち歩く負担が減り、思い立った時に前の場面へ戻りやすい。

まとめ

ミヒャエル・エンデを読む順としては、まず『モモ』で時間の感覚に触れ、次に『はてしない物語 上』『はてしない物語 下』で想像力の大きな旅を味わうのがいい。その後、『自由の牢獄』で大人向けの幻想短編へ入り、『鏡のなかの鏡―迷宮』で迷宮的な深みに進み、最後に『遺産相続ゲーム―地獄の喜劇』で戯曲的な変化球を読むと、作家としての幅が見えやすい。

迷ったら、最初の一冊は『モモ』でいい。忙しさの中で自分の時間が薄くなっている人には、今読んでも古びない。物語の世界に深く浸かりたいなら『はてしない物語』を上下巻で読む。大人になってからの不安や自由の重さに触れたいなら、『自由の牢獄』へ進むといい。

エンデの魅力は、やさしい物語の顔をしながら、読者の生活にかなり深い問いを置いていくところにある。時間をどう使うのか。想像力をどこへ返すのか。自由は本当に自由なのか。欲望とどう付き合うのか。読み終えたあと、世界が大きく変わるわけではない。けれど、いつもの時計や本棚や会話の見え方が、少しだけ変わる。

  • 初めて読むなら、『モモ』から始める。
  • 代表作を押さえるなら、『モモ』と『はてしない物語』上下巻を読む。
  • 大人向けの幻想文学を味わうなら、『自由の牢獄』と『鏡のなかの鏡―迷宮』へ進む。
  • 作家の別の顔まで見たいなら、『遺産相続ゲーム―地獄の喜劇』を最後に読む。

子どものころに読んだ人も、初めて読む人も、今の生活のどこかにエンデの物語が入り込む余地はある。まずは一冊、自分の時間を少し取り戻すように開いてみるといい。

FAQ

ミヒャエル・エンデを初めて読むならどの本がいいか

初めてなら『モモ』が読みやすい。物語として親しみやすく、時間を奪われる社会というテーマも今の生活に結びつけやすいからだ。ファンタジーらしい大きな冒険を求めるなら『はてしない物語』でもいいが、上下巻で読む前提になる。短編集や大人向け作品から入ると少し抽象的に感じる可能性があるため、まずは『モモ』でエンデの語り口に慣れるのがおすすめだ。

『はてしない物語』は上下巻とも読むべきか

上下巻で読むほうがいい。上巻だけだと、ファンタージエンへ入っていく冒険の魅力は味わえるが、物語全体の問いまでは届きにくい。下巻では、願望や力、自己喪失の問題が前に出てくる。『はてしない物語』は、物語に救われる本であると同時に、物語から現実へ戻る本でもある。そこまで読んで初めて、作品の奥行きが見えてくる。

大人が読むならどの作品が向いているか

大人が読むなら、『モモ』を読み返したうえで『自由の牢獄』へ進む流れがいい。『モモ』は忙しさや時間の問題として深く読めるし、『自由の牢獄』は自由や選択の重さを幻想短編として味わえる。さらに難度の高い幻想文学を読みたいなら『鏡のなかの鏡―迷宮』が向いている。ただし、こちらは筋を追うより感覚で読む本なので、静かな時間に少しずつ読むほうが合う。

『鏡のなかの鏡―迷宮』は難しいか

わかりやすい起承転結を求めると難しく感じやすい。連作短編集ではあるが、物語同士が鏡のように反射し合い、はっきりした答えへ向かって進む本ではない。夢や絵画、迷宮のような読書体験を楽しめる人には深く残る。初めてのエンデとして読むより、『モモ』『はてしない物語』『自由の牢獄』を読んだあとに進むほうが、作品の位置づけがつかみやすい。

子ども向けの作家として読んでも大丈夫か

入り口は子どもにも開かれているが、エンデは大人が読んでも十分に深い作家だ。『モモ』や『はてしない物語』は児童文学として読める一方で、時間、想像力、欲望、自己回復といったテーマを含んでいる。子どものころは冒険として読み、大人になってからは生活の問いとして読み直せる。その二重の読み方が、エンデの強さだ。

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エンデの物語を読んだあとに、ほかの幻想文学や児童文学、物語の力を扱う本へ進むと読書の幅が広がる。

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