生きる意味がふっとわからなくなる夜に、川村元気の物語はやたらと刺さる。死や別れ、喪失やお金、仕事や信仰といった重いテーマを扱いながら、読み終えたあとには必ず、もう少しだけ明日を生きてみようと思わせてくれる力がある。この記事では、小説・対話集・絵本・翻訳まで、川村元気の世界を堪能できる20冊を一気に紹介する。
川村元気とは?
川村元気は、1979年横浜生まれの映画プロデューサー・映画監督・小説家だ。東宝で『電車男』『告白』『悪人』『モテキ』などを手がけ、その後『おおかみこどもの雨と雪』『君の名は。』『天気の子』『竜とそばかすの姫』『すずめの戸締まり』『怪物』といった日本映画史に残るヒット作を次々と世に送り出してきた。
映画の世界で成功を収めながら、2012年に小説『世界から猫が消えたなら』で文壇デビューし、本作は世界32か国で翻訳されるベストセラーとなった。その後も『億男』『四月になれば彼女は』『百花』『神曲』と、映像化を前提としたような鮮やかな構図と、文学としての密度を兼ね備えた作品を発表している。
特徴的なのは、どの物語にも「もし、世界が少しだけ違っていたら」という仮定が静かに埋め込まれていることだ。悪魔との取引で世界からモノが消える話だったり、宝くじ3億円が当たってしまった男の苦悩だったり、認知症で過去が曖昧になっていく母と息子の記憶だったり。現実から一歩ずれることによって、かえって現実の輪郭がくっきり見えてくる。
さらに、山田洋次や宮崎駿、坂本龍一ら12人に「仕事」の本質を問うた対話集『仕事。』や、「理系」「文系」のトップランナーたちの思考を探るインタビューシリーズ、『ムーム』などの絵本作品、世界的ベストセラー絵本『ぼく モグラ キツネ 馬』の翻訳まで手がけるなど、領域はきわめて広い。
映画的なスケールと、小説ならではの繊細な心の動き。その両方を味わいたい読者にとって、川村元気は「いま読むべき作家」の一人だと言っていい。
川村元気の本の選び方・読み方ガイド
川村作品はジャンルが幅広く、どこから入るかで印象がだいぶ変わる。迷ったときは、次の入口から選ぶと流れがつかみやすい。
- まず1冊読むなら:『世界から猫が消えたなら』 – 川村元気らしさがぎゅっと詰まった代表作
- とことん泣きたい夜に:『百花』、あるいはより重いテーマなら『神曲』
- お金と幸せについて考えたい:『億男』
- 大人の恋愛と喪失を味わいたい:『四月になれば彼女は』
- 仕事やキャリアに悩んでいる:『仕事。』、さらに『理系。』
この記事では、長編小説から対話集、絵本、翻訳までを一列に並べているが、自分の生活や悩みに近いテーマから拾っていくと、読み進めるほど作品同士がつながって見えてくるはずだ。
川村元気おすすめ本20選
1. 世界から猫が消えたなら(長編小説)
川村元気のデビュー作にして代表作。余命わずかと宣告された郵便配達員の「僕」の前に、自分と同じ姿をした悪魔が現れ、「世界から何かをひとつ消すたびに、1日だけ寿命を延ばしてやる」と持ちかける。電話、映画、時計……そして、猫。僕の命と引き換えに、世界からモノがひとつずつ消えていく七日間が描かれる。
設定だけ聞くとゲームのようだが、この小説が鋭いのは「何を残すか」ではなく、「何を失ってきたのか」に読者の意識を向けさせる点だ。無機質なようで、いつのまにか心の支えになっていた映画や、孤独な夜を埋めてくれた猫との時間。悪魔との取引を重ねるたびに、世界は目に見えないところから静かに痩せていく。
語り口は軽やかでユーモラスだが、読み進めるほど、人生のどこで何を諦めてきたのか、自分自身の七日間を振り返らされるような感覚になる。父親とのぎこちない関係や、元恋人との思い出の描写も生々しく、誰もが一度は経験したような後悔が、淡い光とともに浮かび上がる。
初めて川村作品を読む人には、やはりこの1冊から入るのがおすすめだ。ページをめくる手は軽いのに、読み終えたあとには「世界から何かが消えたら、自分はどうするだろう」と、静かな問いが長く胸に残る。泣きたくないのに、最後には涙をこらえにくくなる小説でもある。
2. 億男(長編小説)
『億男』は、お金と幸せの関係をとことんえぐったエンタメ小説だ。弟の借金を肩代わりしたことで、家族とも離れ離れになり、昼は図書館司書、夜はパン工場と二重生活を送る主人公・一男。そんな彼のもとに突然、宝くじ3億円が舞い込む。人生逆転を夢見るものの、ネットには高額当選者の悲惨な末路ばかりが並び、不安になった一男は、大富豪となった大学時代の親友・九十九を訪ねるが、目を覚ますと3億円と九十九が消えていた。
物語は、九十九の足跡を追うロードムービーのように進む。一男は、九十九が関わってきた人々を訪ね歩きながら、「お金とは何か」「豊かさとは何か」を聞かされ続ける。お金を持ったことで人生を壊した人、逆に救われた人、数字だけを追い続けるうちに大切なものを見失った人。極端なエピソードの連続なのに、なぜかどれも現実味がある。
この小説の面白さは、読者がいつの間にか「自分なら3億円をどう使うか」を真剣に考え始めるところにある。最初は一男の不運に同情しながら読み進めるが、気づけば自分の中にある「お金の価値観」が映し出される鏡として機能し始めるのだ。
読み終えたとき、3億円を手に入れたいかどうかよりも、「今の生活の、どこを豊かにしたいと思っているのか」がはっきりしてくる。お金の話が苦手な人ほど、ちょっと痛みを伴いながらも読んでほしい1冊だ。
3. 四月になれば彼女は(長編恋愛小説)
『四月になれば彼女は』は、恋愛小説の形を借りた「愛の記憶」の物語だ。精神科医の藤代俊のもとに、かつての恋人・春から手紙が届く。手紙の消印は、ボリビアのウユニ塩湖。天空の鏡と呼ばれる場所から届けられたその手紙には、10年前の初恋の記憶が綴られている。同時に藤代には、新しい婚約者・弥生がいて、1年後に結婚を控えていた。しかし弥生はある日突然、「愛を終わらせない方法、それは何でしょう」という謎だけを残して姿を消してしまう。
過去の手紙と現在の失踪。二つの線が交互に語られ、やがて一本に重なっていく構成は、映画的なリズムを持ちながら、文字だからこそ伝わる揺れを含んでいる。春の手紙は甘くもほろ苦く、忘れたつもりでいた自分の初恋が、ページの向こうから呼び起こされるような感覚がある。
一方で、藤代と弥生の関係は、安定しているようでどこか宙ぶらりんだ。愛しているのかどうか、自分でもよくわからない相手と結婚を決めてしまうことの不安。その一つ一つが、言葉にしづらい形で描かれている。読んでいて、「こういうモヤモヤを抱えたまま結婚してしまった人はどれだけいるだろう」と、現実の友人の顔まで浮かんでしまう。
「愛を終わらせない方法」とは何か。小説は最後まで、単純な答えを提示しない。ただ、悲しみや喪失を含んだ「それでも続いていく愛」の形を、静かに照らしてみせる。その余白の多さが、読み手それぞれの恋愛遍歴を呼び込み、読後にしばらく胸がきゅっと締めつけられる1冊だ。
4. 百花(長編小説)
『百花』は、認知症になっていく母と、その息子の物語だ。音楽ディレクターとして働く泉は、妊娠中の妻・香織と忙しい日々を送りながら、一人暮らしの母・百合子のもとへ帰省する。ところが大晦日、実家に母の姿はなく、夜の公園でコートも羽織らずブランコを漕ぐ母を見つける。その日を境に、母は徐々に記憶を失っていき、認知症と診断される。
介護小説と一言で括るにはもったいないほど、この作品は「記憶」と「親子の共犯関係」に踏み込んでいく。母の記憶がこぼれ落ちていく一方で、泉の中では封印されていた記憶が蘇り、母子の間にあった「ある事件」が徐々に輪郭を持ち始める構成だ。
川村元気はここで、介護の苦労話ではなく、「忘れたい記憶」と「忘れられたくない記憶」が交差する地点を描こうとする。息子である泉は、父親を知らないまま母子家庭で育ち、母のすべてを背負ってきた。その重さと愛情が、ごく短い会話や食卓のシーンにじわりとにじむ。
読んでいていちばん苦しくなるのは、母が息子を息子として認識できなくなる瞬間ではない。むしろ、まだかろうじて覚えているうちに見せる、母の小さな見栄や、過去をごまかそうとする仕草だ。そこに「親もまた、完璧でない一人の人間である」という事実が露わになる。
親の老いに向き合う年齢に差し掛かった読者には特に刺さるが、親と子の物語として、もっと若い世代が読んでもいい。自分が親になる未来と、自分の親の老い。その二つが同時に押し寄せてくるような読書体験になる。
5. 神曲(長編小説)
『神曲』は、「神」と「救い」を真正面から扱った、川村元気の中でも最もヘビーな長編だ。小鳥店を営む檀野家の穏やかな日常は、息子が通り魔事件で殺されるという凄惨な出来事によって突然終わりを告げる。犯人は自殺し、残されたのは父・三知男、母・響子、姉・花音の三人だけ。そこに「息子さんのために歌わせてください」と名乗る謎の聖歌隊と、新興宗教団体「永遠の子」が関わり始める。
物語は、父・母・娘それぞれの視点から語られ、同じ出来事の見え方が少しずつずれていく。誰もが「自分こそがいちばん傷ついている」と信じてしまう濃密な悲しみの中で、宗教は甘い救いの言葉とともに入り込む。そのプロセスが、決して一方的な洗脳ではなく、「救われたい側」の欲望と絡み合っているところに、この小説の怖さがある。
「天国と地獄はこの世界にある」というキャッチコピーどおり、超自然的な奇跡はほとんど起こらない。あるのは、現実の中でぎりぎりに追い詰められた人間が、何かにすがらずにはいられなくなる心理だけだ。ラスト20ページは、読みながら思わずページをめくる手が止まるほどの緊張感を持っている。
宗教をテーマにした小説は多いが、『神曲』が印象的なのは、そこに「家族小説」としての厚みが揺るがずに残っている点だ。救いはどこから来るのか。信じる対象を変えても、本当に人は救われるのか。読者自身の信仰観や倫理観まで試される1冊になる。
6. 仕事。(対話集)
『仕事。』は、山田洋次、宮崎駿、坂本龍一、糸井重里、是枝裕和など、各分野の巨匠12人に「仕事とは何か」を問い続けた対話集だ。著者は冒頭で、仕事には「金をもらうための仕事」と「人生を楽しくするための仕事」の二種類があると定義付ける。そのうえで、彼らがどのように壁を乗り越え、何を大切にしてきたのかを引き出していく。
対談の聞き手としての川村元気のうまさが光るのは、単なる成功談ではなく、若い頃の失敗や挫折に話を誘導していくところだ。徹夜続きの現場、評価されない時期、周囲との軋轢。そうした生々しいエピソードを通じて、「仕事がしたい」と心から言える状態に至るまでの時間が立ち上がる。
この本を読むと、仕事の悩みがすぐ消えるわけではない。むしろ、自分は仕事に何を求めているのかという問いが、以前より鋭く突き刺さってくる。ただ同時に、「悩みながら続けていいのだ」と、背中をそっと押される感覚もある。
キャリアに迷っている20〜30代はもちろん、長く同じ仕事を続けてきた人が読んでも、自分の原点を思い出すきっかけになるだろう。川村元気の小説世界の裏側にある「仕事観」を知るうえでも、外せない1冊だ。
7. 理系。(対話集)
『理系。』は、養老孟司、宮本茂など、理系のトップランナー15人と対話し、「世界をどう捉えるか」という思考の土台を探る1冊だ。科学者、ゲームクリエイター、エンジニア……彼らの言葉は、一見バラバラに見えて、ある共通点を持っている。それは「世界をよく観察し、構造ごとつかもうとする姿勢」だ。
たとえば、宮本茂がゲームづくりについて語るとき、そこには「遊びとは何か」という根源的な問いが常に潜んでいる。養老孟司であれば、「脳」と「身体」のズレから現代社会を読み解いていく。理系の話だからといって難しい数式が並ぶわけではなく、どの対談も、生活感のある比喩で語られていくところが読みやすい。
文系・理系という線引きに息苦しさを感じてきた人には、特に響く本だ。理系の人の頭の使い方を覗き見することで、自分の仕事や人生の組み立て方まで変わっていくかもしれない。
8. ムーム(絵本)
『ムーム』は、人間の姿が消えた世界で、主人公の少女・ムームが「思い出」を集めて旅をする絵本だ。ピクサーで『トイ・ストーリー3』などに関わったアートディレクター・堤大介らと組み、短編CGアニメとしても制作されたことで知られている。
絵本としての魅力は、まず圧倒的なビジュアルにある。静かな廃墟や、湖に浮かぶ断片的な記憶のイメージが、美しくもどこか不安を誘う。その風景の中で、ムームが拾い集める「思い出」は、決して甘い記憶ばかりではない。失敗や悲しみも含めて、すべてが世界を形作るピースとして描かれる。
子どもに読み聞かせることもできるが、大人が一人で読むと、なぜか胸が少し締めつけられる作品だ。川村元気らしい「喪失から始まる物語」が、絵本という形で凝縮されている。
9. パティシエのモンスター(絵本)
『パティシエのモンスター』は、甘いものが大好きなモンスターとパティシエが巻き起こす騒動を描いた絵本だ。サンドウィッチマンが読み聞かせで絶賛したことでも話題になった。
モンスターが引き起こすドタバタ劇は、子どもが声を出して笑うようなテンポで進むが、その底には「好きなものを好きと言うことの大切さ」や、「誰かの好きを笑わないこと」といったメッセージがうっすら流れている。説教臭くはならず、あくまで物語の余白として残されているのがうまい。
甘いものが好きな子どもはもちろん、甘いものに少し罪悪感を抱きがちな大人が読んでも、ふっと心が軽くなる一冊だ。
10. マカロンのかいかた(絵本)
『マカロンのかいかた』は、「マカロンをペットとして飼う」という突拍子もない設定からスタートする絵本だ。丸くてカラフルなマカロンたちが、まるで小動物のように家の中を歩き回るイラストは、見ているだけで楽しい。
この作品の面白さは、「かいかた」という言葉に込められた、ちょっとしたズレにある。本来は食べ物であるマカロンを、動物のように世話する。そこには、「消費する」だけではなく、「一緒に暮らす」存在としてモノを見る視点がのぞく。
子どもと一緒に、「もし◯◯をペットにするならどうする?」と想像を広げながら読むと、会話が尽きないタイプの絵本だ。
11. ぼく モグラ キツネ 馬(翻訳絵本)
世界的ベストセラー“The Boy, the Mole, the Fox and the Horse”の日本語版として話題になった『ぼく モグラ キツネ 馬』。少年と三匹の動物が旅をしながら交わす対話を通じて、「家とは何か」「優しさとは何か」「弱さとどう付き合うか」といった問いが、柔らかな言葉と絵で綴られている。
川村元気はここで、単なる直訳ではなく、日本語としてのリズムと余白を丁寧にすくいとっている。短いフレーズの中に、息をするような間があり、そのままポストカードに印刷して部屋に貼りたくなるような一文がいくつも見つかる。
8歳から80歳まで読めると言われる本だが、特にしんどい時期に読むと、ページを開くだけで涙腺が危険になる。ストーリーというより、人生のさまざまな局面で何度も開き直したくなる「お守り」のような1冊だ。
12. 超企画会議(企画論・対話集)
『超企画会議』は、伝説的編集者やクリエイターたちと「企画が生まれる瞬間」を徹底的に掘り下げた一冊だ。映画、雑誌、広告、ゲーム……どの世界でも、企画の良し悪しがすべてを決めることが多い。その「最初の一歩」に何が起きているのかを、対話形式で追いかけていく。
読んでいると、「企画力」という抽象的なものが、少しずつ具体的な姿をとり始める。誰と話すのか、どこまで細部を詰めるのか、どの段階で人に見せるのか。クリエイターたちの癖がそのまま言葉になっているので、自分の仕事に当てはめて考えやすい。
アイデアが枯れていると感じるときに開くと、「企画の種」は日常のそこらじゅうに落ちていることを思い出させてくれる本だ。
13. 私の馬
『私の馬』は、造船所で働く地味な事務員・瀬戸口優子が、一頭の元競走馬ストラーダと出会うところから始まる。国道沿いで馬運車から逃げ出した馬に偶然遭遇し、その黒い瞳に射抜かれた瞬間から、彼女の人生は静かに狂い始める。街外れの乗馬クラブでストラーダにまたがり、誰よりもその馬と心が通じ合っていると感じた優子は、やがて「この馬をチャンピオンにしたい」と願い、すべてを賭け始める。問題は、その資金源が自分の勤める労働組合の金庫だった、という一点だ。
物語の土台には、実際に女性職員が多額の組合費を横領し、馬に貢いでいたという事件がある。だが小説は、ワイドショー的な「奇行」の説明ではなく、「なぜこの人はここまで馬にのめり込んでしまったのか」という一点を、ひたすら彼女の一人称で掘り下げていく。ストラーダの毛並みの手触り、汗の匂い、視線が合ったときの「すべてが伝わってしまう」感覚が、淡々とした文体の中でやけに生々しく立ち上がってくる。
読んでいておもしろいのは、優子が「馬とは言葉を使わずに分かり合える」と信じて突き進めば突き進むほど、逆に人間同士の言葉はどんどんすれ違っていくところだ。職場の同僚や家族に対して彼女が発する言葉は、「それは横領です」「説明になっていない」と切り捨てられていく一方で、読者だけは彼女の内面を知ってしまうので、完全に否定しきれない奇妙な共感を覚えてしまう。彼女の行動は明らかに間違っているのに、そこに至るまでの小さな選択の積み重ねを見せられると、「自分もどこかで似たような崖っぷちに立つかもしれない」とぞわりとする。
川村元気の小説はこれまでも「愛」や「喪失」をテーマにしてきたが、『私の馬』ではそれがかなりダークな方向に振り切れている印象だ。優子にとってストラーダは、恋人でも家族でもなく、「自分のすべてを預ける対象」として描かれる。馬具をそろえ、厩舎を整え、休日のすべてを彼に捧げる優子の姿は、依存と信仰の境目をふらふらと行き来する。ここに、現代の推し活や課金文化とも地続きの、どこか身に覚えのある歪んだ愛が透けて見えてしまう。
同時に、この作品は「言葉」に対する川村自身の問い直しでもある。SNSやニュース、広告で世界が言葉であふれかえっている時代にあって、優子が求めるのは、言葉を介さず目と目で通じ合える存在だ。ところが、読者がその姿を知るのはあくまで「小説」という言葉の塊を通してであり、その矛盾がページの裏側でずっとざわざわしている。読み終えたあと、誰かに「この本すごかった」と伝えようとした瞬間に、うまく語りきれない自分に気づく、そんなタイプの作品だと思う。
読者としては、馬や競馬に詳しくなくてもまったく問題ない。むしろ、何かひとつの対象に全力でのめり込んだ経験がある人ほど、優子の狂気に似た熱に共振するはずだ。仕事や家庭よりも「それ」に心を奪われ、あとから振り返ると「なぜあそこまで」としか言いようがない時間を生きてしまったことがある人なら、この小説の怖さと切なさがよく分かる。川村元気の小説の中でも、かなり読後感の重い一冊だが、彼の作家としての現在地を知るうえでは避けて通れない一作だと感じる。
14. 8番出口
『8番出口』は、世界的にヒットした日本発のインディーゲーム「8番出口(The Exit 8)」をもとに、映画監督でもある川村元気が自ら書き下ろした小説版だ。無機質な地下通路を延々と歩き続け、「異変」を見つけたら引き返し、何もおかしな点がなければ進む──そんなシンプルなルールだけが示された世界で、「迷う男」が本当の出口を探し続ける。ゲームではほとんど語られなかったストーリー部分を、人生観・死生観・罪の意識にまで広げて描き直したのがこの本だ。
冒頭から、読者は主人公と一緒に白い地下通路に放り込まれる。天井の蛍光灯、壁の案内板、同じように通路を歩くスーツ姿の人影。何度歩いても同じ景色が繰り返され、「さっきもここを通ったはずだ」という既視感だけがじわじわと積もっていく。やがて壁に貼られた「ご案内」の紙に気づき、そこに書かれたルール──「異変を見逃さないこと」「異変を見つけたら引き返すこと」「異変がなければ進むこと」「8番出口から出ること」──を頼りに歩み続けることになる。
ゲーム版を知っている人なら、「あの間違い探しみたいなシーンがどう小説になるのか?」という好奇心がまず先に立つと思う。実際、川村元気はその部分を、ただのホラーや仕掛け探しに留めない。通路の「異変」を見抜けるかどうかという緊張と同時に、主人公の頭の中に浮かび上がる過去の記憶や後悔が、少しずつ輪郭を持ち始める。地下通路の無機質な白さと、彼が背負ってきた罪悪感の重さが、ページをめくるごとにじわじわとリンクしていく感覚がある。
この小説のおもしろいところは、「ループする通勤路」と「ループする人生」をほとんど同じものとして描いている点だと思う。毎日同じ時間に同じ駅で降り、同じオフィスへ向かい、同じような会議とタスクをこなす。違和感(異変)をうっすら感じても、忙しさを理由に見なかったことにして進んでしまう。気がつけば、何年も同じ場所をぐるぐる回っていただけなのではないか──そんな感覚を持ったことのある人には、この地下通路はかなり刺さる。
さらに、紙の書籍版そのものにも「異変」が仕込まれているのが楽しい。フォントの色が一行だけ変わっていたり、左右見開きの細かな汚れが違っていたり、本体価格が「888円」になっていたりと、現実の本を手にしているのに、ゲームさながらの「間違い探し」をしているような気分にさせられる。物語の中の通路と、読者が手に持っている本のページが二重写しになっていく仕掛けは、ゲーム原作らしい遊び心でありつつ、小説ならではの楽しさでもある。
物語そのものは、ネタバレを避ける意味でも細部までは触れないが、主人公が地下通路で出会う人々や「異変」は、ただ怖いだけの存在ではない。彼らの言葉や振る舞いを通じて、主人公が避け続けてきた過去の出来事や、大切な人との関係、災厄の記憶と向き合わざるをえなくなっていく。出口を探す旅は、そのまま「自分の人生に責任を持つ覚悟を固める過程」として描かれ、最後まで読むと、ホラーというよりも限りなく寓話に近い読後感が残る。
ゲームをプレイ済みの人には「同じ世界を別の角度から照らす補助線」として、小説から入る人には「最近なぜかしんどいと感じている日常」を見直すきっかけとしておすすめしたい一冊だ。ホラーが苦手でも、心理劇や人生小説として読むのであれば、そこまで身構えなくていい。通勤電車で少しずつ読み進めているうちに、自分の毎日のループの中にも、見逃していた「異変」があったのではないかとふと考えさせられると思う。
関連グッズ・サービス
本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。川村元気の作品とも相性がいいアイテムを、いくつか挙げておく。
まずは電子書籍環境だ。川村作品は感情が揺さぶられる場面が多いので、夜中にふと読み返したくなることが多い。紙の本とあわせて、軽いKindle Unlimited環境があると、外出先でもすぐに読み返せる。
耳で物語を浴びたいタイプなら、通勤や家事の合間にAudibleを組み合わせるといい。映像的な描写が多い作家なので、声優やナレーターの読み上げと相性がいい作品も多い。
ゆっくり読みたい夜には、あたたかい飲み物と、着心地のいいルームウェアがあると、物語への沈み込み方が変わる。『世界から猫が消えたなら』や『四月になれば彼女は』のような作品を読むときは、少し気温を落として、温かい飲み物を両手で包みながら読むと、ページの向こう側の孤独や切なさを、身体レベルで共有できるはずだ。
FAQ(よくある質問)
Q1. 川村元気の小説はどの順番で読むのがいい?
最初の1冊としては、やはり代表作の『世界から猫が消えたなら』をすすめたい。そのうえで、お金や仕事に悩んでいるなら『億男』と『仕事。』、愛や別れに向き合いたいなら『四月になれば彼女は』へ進むと、作家としての変遷が自然に見えてくる。親子や家族のテーマに強く惹かれるなら、早めに『百花』と『神曲』を読んでおくと、後の作品の読み味も変わる。
Q2. かなり泣けると聞くけれど、重すぎてしんどくならないか心配だ
確かに『百花』や『神曲』はテーマが重く、読むタイミングによっては胸にずしんと響く。ただ、川村元気の物語は「絶望のまま終わる」ことがほとんどない。どんなにしんどい状況でも、ラストには、小さくても確かな希望の灯りが残されている。その光があるからこそ、読者は重いテーマを最後まで追いかけていける。しんどさが不安なら、合間に『ムーム』や『ぼく モグラ キツネ 馬』といった絵本・翻訳を挟むとバランスが取りやすい。
Q3. ビジネス寄りの本だけ読みたい場合は、どれを選べばいい?
仕事やキャリアについて考えたいなら、まず『仕事。』が中核になる。そのうえで、思考法に興味があるなら『理系。』 をセットで読むと、ものの見方が立体的になってくる。企画やアイデア出しに悩んでいる人は『超企画会議』を合わせて読むと、日常の中で企画の種を拾うアンテナの張り方が見えてくるはずだ。
Q4. 子どもに読み聞かせるなら、どの絵本から始めるのがいい?
年齢にもよるが、幼児〜低学年なら、テンポのいい『パティシエのモンスター』や『マカロンのかいかた』あたりが読みやすい













