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【小川洋子おすすめ本20選】静かで美しい「異世界」へいざなう代表作・読書ガイド

日常から半歩だけずれた場所で、ひっそりと呼吸しているような物語を書き続けてきたのが小川洋子だ。声を荒げることなく、静かな文章で人間の残酷さと優しさの両方をそっと机の上に置いてくる。

ここでは代表的な20冊を、入りやすい順番やテーマも意識しながらまとめて紹介する。どれもページを閉じたあと、胸の奥に小さなざらつきと温度が残るような本ばかりだ。

 

 

小川洋子とはどんな作家か

小川洋子は1962年岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞を受けてデビューし、『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞した。

その後、『博士の愛した数式』で読売文学賞と第一回本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、『小箱』で野間文芸賞など、国内主要文学賞を次々と受賞し、日本を代表する作家の一人となった。

初期は身体や家族関係の陰影を、どこか冷ややかな視線で描く作品が多く、その後は記憶や喪失、ささやかな優しさをめぐる物語へと大きな流れをつくっていく。代表作としてしばしば挙げられるのが、『妊娠カレンダー』『密やかな結晶』『博士の愛した数式』『ミーナの行進』『ことり』などだ。

暴力や死、ときに支配や狂気を扱いながらも、言葉づかいは徹底してやわらかく静かなまま。だからこそ、読み進めているうちに、読者自身の記憶や痛みがじわじわと浮かび上がってくる。どの一冊から入ってもかまわないが、あなたがどんな気分で本を開くかによって、ベストな一冊は少し変わってくるはずだ。

小川洋子作品の読み方ガイドとナビ

小川作品は、大きく分けると「やわらかく心を癒やす系」と「ひんやりとした不穏さが強い系」、そして「ノンフィクション・エッセイ」に分かれる。最初の一冊をどこに置くかで、この作家との距離感がかなり変わる。

まずは読みやすさと温度で選びたい人は『博士の愛した数式』『ミーナの行進』『ことり』『猫を抱いて象と泳ぐ』あたりが入り口になってくれる。一方で、「小川洋子のダークな側面」をがっつり味わってみたいなら、『密やかな結晶』『妊娠カレンダー』『ホテル・アイリス』『完璧な病室』などが候補になる。

実在の記憶や旅に寄り添うノンフィクションを読みたい人には『アンネ・フランクの記憶』『原稿零枚日記』。短編集から少しずつつまみ食いするなら『不時着する流星たち』『約束された移動』『人質の朗読会』などが向いている。

アンカー付きおすすめ本一覧

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小川洋子おすすめ本20選

1. 博士の愛した数式

記憶が80分しか持たない数学者の「博士」と、彼のもとに派遣された家政婦、その息子「ルート」の三人がつくりあげる、小さな家族の物語。交通事故の後遺症で記憶がリセットされ続ける博士は、そのたびに家政婦とルートに自己紹介をし、数学の美しさを語り始める。

物語の中心にあるのは難解な数式ではなく、「好きなものを分かち合う」という、きわめて素朴な喜びだ。完全数や友愛数、素数といった概念が、博士の口から語られるとき、それは人生の手触りや人間同士のつながりのメタファーに変わっていく。

博士は決して聖人ではなく、気難しく、理不尽なところもある。それでも読者は、家政婦とルートが博士を慕っていく過程を通して、「人を大事に思う」とはどういうことかを、静かに問い直される。野球の話題や食卓の風景が丁寧に描かれているせいで、理系が苦手な人でも自然と物語に入り込めるはずだ。

数学への苦手意識を少しでも溶かしたい人、家族小説が好きな人、そして「ささやかな優しさ」に救われたい夜に、この一冊はとても心強い入り口になる。小川洋子を初めて読むなら、まずここからと薦めたくなる代表作だ。

2. 密やかな結晶

どこか遠い島で、日常のささやかなものが次々と「消えて」いく世界。そのたびに人々は、失われたものへの記憶もまた失い、何事もなかったかのように暮らしを続ける。主人公の「わたし」は小説家で、編集者の男と、記憶を保持し続けてしまう父親を持つ少女と関わっていく。この作品の不気味さは、「消失」が決して大げさな出来事ではなく、淡々とした筆致で描かれているところにある。鳥が消え、薔薇が消え、物語が進むにつれ、身体の一部や言葉すらも危うくなっていくのに、島の人々はほとんど抵抗しない。読んでいる側は、何か大切なものを奪われ続けているのに、声を上げられない夢の中に閉じ込められているような感覚になる。

一方で、「記憶警察」による監視や弾圧の描写は、現実の社会と地続きの怖さを持っている。何を忘れるかを他者に決められてしまう世界は、極端なディストピアでありながら、情報があふれる現代の比喩としても読めてしまうからだ。

世界観は決してやさしくないが、文章のトーンは驚くほど静かで、どの場面にも澱んだ美しさが漂う。現実と非現実の境目がゆっくり曖昧になるような読書体験を求めている人には、忘れがたい一冊になると思う。

3. 妊娠カレンダー

姉の妊娠を日記のように記録していく妹が語り手となる表題作「妊娠カレンダー」を中心にした短編集。体内で育っていく「何か」をめぐる記録は、本来祝福されるはずの出来事のはずなのに、読んでいると次第に不穏な影が差してくる。

作中には、イチゴのジャムを使った印象的なエピソードが出てくる。そこには悪意と愛情が入り混じり、妹の冷静さと残酷さが静かに浮かび上がる。小川洋子の「身体」と「家族」をめぐる感覚の鋭さが、もっとも生々しいかたちで現れている作品だと言える。

他の収録作も、日常のわずかなひずみから、取り返しのつかない何かが立ち上がってしまう瞬間を丁寧に追っていく。大きな事件が起きるわけではないのに、ページを閉じたあとしばらく、胃の奥がひんやりと冷えるような余韻が残る。

あたたかい家族小説よりも、人の暗い部分に触れてみたいとき。この短編集は、小川洋子の「ダークサイド」への入口としてぴったりだと思う。短くても、感情への響き方は長編に負けない。

4. ミーナの行進

1970年代の芦屋。両親が離婚し、叔母の家に預けられることになった少女と、そこに住む病弱な従妹・ミーナとの一年間を描く長編。大きな外国風の屋敷、ドイツ人の祖母、そしてミーナが溺愛するモルモットのポールといった細部が、濃いノスタルジーをまとって立ち上がる。

一見すると、どこか懐かしい少女小説のような世界だが、物語の中には差別や病、別れといった現実の影が静かに入り込んでくる。読者は主人公と一緒に「大人の世界」を少しずつ学びながら、同時に、子どもでいることの特権と残酷さの両方を思い知る。

ミーナは弱々しく見えて、意外なほど意志が強い。彼女のまっすぐな言葉に、周りの大人たちのほうが試されているように感じられる場面も多い。屈託のない笑い声と、取り戻せない喪失が同じページに載っている、それがこの小説の大きな魅力だ。

家族ものや成長物語が好きな人にとっては、宝物のような一冊になるはずだし、青春小説として読んでも十分に応えてくれる。しんと静まった夜にじっくり時間をかけて読みたい。

5. 猫を抱いて象と泳ぐ

生まれつき胸に大きな傷を負い、人前に立つことができない少年が、チェスの才能を見出され、「盤の下」で操る人形の棋士として生きていく物語。少年は外からは見えない場所で対局を行い、猫とともにひっそりと世界の頂点を目指していく。

題名の「猫」と「象」は、そのままチェスの駒と小さな相棒を指しているが、読み進めるうちに「孤独な天才が抱え込むもの」の象徴にも思えてくる。幼い頃から自分の身体を恥じ、目に見えないところで価値を証明しようとする少年の姿は、美しくも痛々しい。

チェスのルールに詳しくなくても、対局の緊迫感や駆け引きはじゅうぶん伝わってくる。むしろ、この小説の核心にあるのは、勝ち負けよりも、「自分の場所をどう見つけるか」という問いだろう。天才の物語でありながら、読者は、どこか自分自身の小さな秘密と重ねてしまうかもしれない。

才能とコンプレックス、栄光と孤独。そのどれもに関心がある人には、じっくり浸かってほしい長編だ。

 

6. 薬指の標本

思い出の品を「標本」として閉じ込める研究所に勤め始めた女性と、その館長との関係を描く物語。研究所に持ち込まれるのは、指輪や手紙といった分かりやすい記念品だけではない。壊れた道具や、誰かの身体の一部のようなものまで、ありとあらゆる「思い」が詰まった品々が運び込まれてくる。

標本化の作業はひどく官能的で、同時にとても静かだ。ガラスの中に封じ込められたものは、もう決して手に触れられない。けれど、完全に忘れられてしまうわけでもない。その曖昧な位置に、恋愛や執着の感情が重ねられていく。

館長との関係は、いわゆるロマンチックな恋愛とはまるで違う。支配と服従、観察と被観察が、何度も入れ替わる。そのたびに語り手の「わたし」は、自分がどこまでを望み、どこからが怖いのか分からなくなっていく。

フェティッシュな雰囲気の物語に惹かれる人や、「愛」と「執着」の境目をじっくり眺めてみたい人には、とても相性のいい一冊だと思う。

7. 人質の朗読会

舞台は外国の紛争地帯。ツアーバスが反政府ゲリラに襲われ、日本人を含む人質たちが捕らえられる。彼らは、自分の人生を綴った原稿を一人ずつ書き、それを朗読することで、死の恐怖から心を保とうとする。収録された八つの物語は、それぞれが人質の「人生の一章」になっている。

タイトルだけ聞くと重苦しく感じるが、実際に語られるエピソードは、平凡な日々の小さな後悔や喜びが中心だ。ささやかな家庭の思い出、仕事場での出来事、誰かへの謝罪や感謝。死と隣り合わせの状況でこそ、人は意外なほど些細なことを思い出すのだと気づかされる。

一つ一つの原稿は短く、静かだが、その背後には「もしかしたら二度と戻れないかもしれない生活」が丸ごと詰まっている。読んでいる側も、ふと自分だったら何を語るだろう、と考え込んでしまうはずだ。

短編集として読みやすく、しかも読後に長く残る余韻がある。通勤時間など、少しずつ読み進めたいときにも向いている。

8. ことり

ことり (朝日文庫)

ことり (朝日文庫)

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幼い頃から、人間の言葉ではなく小鳥のさえずりに親しんできた兄。その兄を深く理解し、支え続けてきた弟。物語は兄の死後、ひとり残された弟の視点から、「ことり」との時間を回想する形で進む。

兄は一般的な意味では「障害」を抱えた人物として描かれる。しかし、この小説は決して彼を哀れな存在としては扱わない。むしろ、兄が世界と結ぶ独自のチャンネルを、弟がどれほど愛おしんでいるかに焦点が当てられている。

静かな日常のなかで、弟は兄の代わりに小鳥たちの世話をし、記憶の中にいる兄と対話を続ける。孤独であることと、ひとりぼっちであることは違うのだ、と読者も少しずつ理解していく。物語全体が、かすかな羽音とともに胸の奥に降り積もっていくような感覚がある。

家族の介護や支え合いの経験がある人には、痛いほど刺さる部分が多いだろうし、そうでなくても、「他人とちがう感覚で生きる」ということに興味がある人には、ぜひ読んでほしい。

9. ホテル・アイリス

海辺のリゾート地で、母が経営するホテルを手伝っている少女・マリ。ある夜、客室からの騒ぎをきっかけに、ひとりの老翻訳家と出会う。やがてマリは彼の住む島へ通うようになり、二人の関係は背徳的で危ういものへと深まっていく。

小川作品の中でも、性的な描写と支配・服従のテーマがはっきりと前面に出た一冊だ。翻訳家の男は、マリに命令を下し、彼女の身体と心を支配しようとする。一方でマリ自身も、その関係を通して、自分の欲望や痛みを確かめようとしているように見える。

読者は終始、居心地の悪さと魅惑のあいだを行き来することになるだろう。これは明るい恋愛物語ではないし、救済の物語とも言い難い。それでも、登場人物たちが「自分にとっての自由とは何か」を模索し続ける姿から目が離せなくなる。

甘い読書時間を求める人よりも、人間の欲望の暗い側面を文学として味わってみたい人に向いた一冊だ。

10. 琥珀のまたたき

塀に囲まれた大きな家で暮らす三姉弟。彼らの母親は「外の世界は危険だから」と、様々なルールを課し、子どもたちを屋敷から出さないようにしている。父親は姿を消し、世界はほとんど屋敷と庭だけで完結しているように見える。

この閉ざされた空間は、一見すると安全で、整えられた場所だ。しかし、読者はページをめくるごとに、その完璧さがゆっくりと歪んでいることに気づかされる。母の言葉は守りであると同時に呪いでもあり、子どもたち自身も、自分たちが何から守られているのか分からなくなっていく。

タイトルにある「琥珀」は、時間を封じ込める石として象徴的に使われる。過去のある瞬間を閉じ込めることでしか、家族は自分たちの物語を保てないのかもしれない。その残酷さと優しさが、作品全体を通してじわじわと効いてくる。

家族という小さな世界の中で育つ歪みや、支配と愛情の境い目に興味がある人には、とても読みごたえのある一冊だ。

11. 原稿零枚日記

タイトルどおり、「原稿が一枚も進まない」作家の日々を綴った日記形式の作品。執筆が進まない焦り、日常生活の細部、ふとした記憶や読書体験が、淡々とした筆致で綴られていく。

創作にまつわる苦悩が描かれているのに、この本には奇妙なユーモアと安らぎがある。むしろ、「書けない」という状態を抱えたまま、それでも毎日を生きていく姿に、読者は親近感を覚えるはずだ。何かをつくる仕事をしていなくても、「思うように進まない日々」に心当たりのある人は多いだろう。

作家の舞台裏をのぞいてみたい人はもちろん、仕事や勉強、創作に行き詰まっているときに読むと、不思議と肩の力が抜ける一冊だ。

12. 沈黙博物館

舞台は、ヨーロッパの小さな村。村の死者たちの遺品を集め、展示するためだけに建てられた「沈黙博物館」で働くことになった語り手の青年が、館長の老女とともに仕事を続けていく。

この博物館に並ぶのは、華やかな名品ではない。誰かの着古した服、道具、メモのような紙切れ。観光客もほとんど訪れない場所で、それでも老女は黙々と遺品を受け取り、物語を聞き取り、展示を続ける。まるで、世界からこぼれ落ちてしまいそうな記憶を、一つずつ拾い上げていくように。

死と喪失を扱っているのに、この小説にはどこか温かい静けさが漂う。誰かの人生が終わっても、その人が使っていたものや、触れていたものは残り続ける。その事実が、やさしい慰めにも、どうしようもない切なさにもなる。

「忘れられること」が怖いと感じる日に、ゆっくり噛みしめたい物語だ。

13. アンネ・フランクの記憶

『アンネの日記』を巡る足跡をたどるために、著者がオランダやドイツを訪ね歩いた旅の記録であり、同時に一人の作家として「書くこと」と向き合うエッセイでもある。アンネの隠れ家、関係者たちの証言、アウシュヴィッツへの旅路などが静かな筆致で綴られていく。

アンネ・フランクの物語は、あまりにも有名であるがゆえに、逆に「知っているつもり」になってしまいがちだ。この本は、その「知っているつもり」を丁寧にほどいていく。実際に場所を訪ね、空気を吸い、遺された文字に触れることで、アンネという一人の少女が、歴史上の象徴ではなく、生身の人間として立ち上がってくる。

同時に、著者自身が「なぜ自分は書くのか」という問いに揺れながら歩いていることも印象的だ。小説とは違う形で、小川洋子の根っこにある感性に触れられる一冊で、彼女のフィクション作品を読み直すきっかけにもなる。

14. 不時着する流星たち

実在の人物や実話をもとに紡ぎ出された十の短編から成る作品集。それぞれの物語には、大きな事件が起きるわけではない。むしろ、人生のある瞬間に「ふっと落ちてきた」出来事が、流星のように描かれている。

タイトル通り、流星は本来なら夜空を滑って消えていくものだが、この本に登場する流星たちは、どこかに不時着して、そこに小さな痕跡を残していく。その痕跡が、登場人物の心の動きや、生き方をそっと変えてしまう。

一話一話は短く、読みやすい。けれど、連続して読むと、世界の見え方がほんの少しだけ変わっていることに気づくはずだ。忙しい日々の合間に「一編だけ」とつまみ読みしても満足感が高い短編集だ。

15. 最果てアーケード

「世界の果て」にあるかのような、不思議な商店街・最果てアーケード。そのアーケードに並ぶ店々を舞台に、人々が失くしてしまった何かを取り戻したり、逆に手放したりしていく連作短編集。

商店街の風景自体はどこか懐かしく、古びているのに、そこで交わされる出来事はどこか現実離れしている。失くした時間を売る店、過去の思い出を預かる店など、設定だけ聞くとファンタジーのようだが、物語の中心にあるのは人々のささやかな後悔や願いだ。

読む人によって、「自分もこんな店に行ってみたい」と思う店がきっと違うはずだ。人生のどこかで取り落としてしまった何かを、もう一度そっと拾い上げたいと感じている人には、静かな慰めになる一冊だと思う。

16. やさしい訴え

夫の不倫に傷つき、山あいの別荘に逃れるようにして暮らし始めた「わたし」。そこで出会うのが、チェンバロ職人の男とその女弟子だ。二人が森の中の工房で紡ぎ出す音楽と生活に触れながら、わたしの心は少しずつほぐれていく。

三人の関係は、単純な三角関係ではない。師弟の間に流れる特別な空気、そこに入り込もうとするわたしの嫉妬と諦め。森という閉ざされた空間で、愛と孤独、聖域と日常の境界線が何度も揺れ動く。

チェンバロの音色が、直接描かれることは少ないのに、文章全体がどこか澄んだ響きを持っているのが印象的だ。人間関係に疲れたとき、「誰かの世界をただ眺めていたい」と思うことがあるなら、この小説はその感覚をよく知っている。

17. ブラフマンの埋葬

さまざまな芸術家たちが滞在する「創作者の家」で管理人として働く「僕」が、傷ついた小さな生き物ブラフマンを保護するところから物語は始まる。ブラフマンという名前はサンスクリット語で「謎」を意味し、その名の通り、彼がいったいどんな動物なのか最後まで分からない。

ブラフマンとのひと夏の交流は、穏やかでありながら、どこか死の匂いをはらんでいる。芸術家たちの生活や創作の残酷さが背景として描かれつつも、物語の中心にあるのは、言葉を持たない生き物と人間とのあいだに生まれる、説明しづらい「親しみ」だ。

読者は、ブラフマンの小さな体温や質感を想像しながらページをめくることになるだろう。そして、「別れ」が来ることを薄々察しながらも、そこから目をそらすことができない。小さな葬送の物語でありながら、生き物と共に過ごした時間の尊さを強く思い出させる一冊だ。

18. 完璧な病室

表題作「完璧な病室」をはじめ、デビュー作「揚羽蝶が壊れる時」など、初期の代表的な四編を収めた短編集。病に冒された弟を見守る姉が語り手となる「完璧な病室」では、病室という無機質な空間が、奇妙な安らぎと執着の場として描かれる。弟の死が近づいていることを姉は理解している。それでも彼女は、ベッドや機械、白い壁で構成された空間を「完璧」と呼び、そこに自分の居場所を見出そうとする。その感覚はどこか倒錯しているが、どこかで読者も共感してしまうところがある。

初期作品らしく、描写はやや尖っていて、家族愛の裏側に潜む依存や支配のムードがはっきりと出ている。小川洋子の原点に触れてみたい人、後期のやわらかい作品だけでなく、初期の鋭さも味わってみたい人にとっては、必読の一冊だ。

19. 貴婦人Aの蘇生

「猛獣館」と呼ばれる古い洋館には、北極グマをはじめとする数え切れないほどの動物の剥製が並んでいる。館に暮らすのは、ロシア皇帝ニコライ2世の末娘を自称する老婦人と、その姪である「私」。伯父の死をきっかけに洋館へ移り住んだ「私」は、貴婦人Aと呼ばれる伯母と奇妙な共同生活を始める。

伯母は夜ごと、館中の剥製や毛皮にアルファベットの「A」の刺繍を施し続ける。その行為は、彼女なりの「蘇生」の儀式なのか、それとも過去から逃れられない呪いなのか。読者は、伯母の謎めいた日課と、館を訪れる人々とのやり取りを通して、ゆっくりとその意味を考えさせられる。

歴史の影と個人的な記憶が交差する物語であり、同時に、小川洋子らしい「閉ざされた世界」の一変奏でもある。豪奢で少しホラーじみた雰囲気が好きな人にはたまらない一冊だ。

20. 約束された移動

タイトル通り、「移動」をテーマにした短編集。旅、引っ越し、転校、仕事の異動など、人生の中で人が場所を移すさまざまな場面がモチーフになっている。

小川洋子の作品において、場所が変わることは単なる環境の変化ではなく、記憶や人間関係のレイアウトが組み替えられることを意味する。この本でも、移動の前後で人々の心の位置が少しずつずれていき、そのずれがときに救いとなり、ときに喪失となる。

長編を読む時間はないけれど、小川洋子の世界に少し触れてみたい。そんなときに手に取りやすい短編集だと思う。気に入った一編から、他の長編へと橋渡しをしてくれる入り口にもなる。

関連グッズ・サービス

本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。

小川洋子の作品は短編集も多く、電子書籍との相性がいい。通勤電車や寝る前のベッドの中で、一編だけ読むという楽しみ方もしやすい。

Kindle Unlimited

小川作品の一部は電子書籍で配信されており、定額読み放題サービスを使うと「気になる短編集を少しずつ試す」という読み方がしやすくなる。紙で手元に置きたい一冊と、サブスクで流し読みしたい一冊を分けるのも楽しい。

Audible

Audible

朗読で味わうと、小川洋子の「静かな声」がさらに際立つ。特に『博士の愛した数式』や『人質の朗読会』のように、語り口が重要な作品は、音で聴くとまったく違う印象になるはずだ。

Kindle端末

暗い部屋で目にやさしく読める電子ペーパー端末は、夜にじっくり読みたい小川作品とよく合う。バックライトを落として読むと、物語の静けさがそのまま部屋に広がるような感覚になる。

 

あたたかい飲み物

ホットミルクやハーブティーなど、カフェイン少なめの飲み物を用意して読むと、作品の静けさと身体のリラックスがちょうどよく重なる。特に『ミーナの行進』や『最果てアーケード』のような、少しノスタルジックな作品と相性がいい。

 

まとめ|どの本から読むか迷ったら

ここまで20冊をざっと眺めてくると、小川洋子という作家の内部に、いくつもの「温度」があることが分かるはずだ。冷たく冴えた初期作から、柔らかく記憶を抱きしめる後期作まで、どれも静かだが、身体のどこかに確実に触れてくる。

読書の目的別に、最初の一冊を選ぶとしたら、こんな感じになると思う。

  • 気分でふわっと入りたいなら:『博士の愛した数式』『ミーナの行進』
  • 人間の暗い部分をじっくり見つめたいなら:『妊娠カレンダー』『密やかな結晶』『ホテル・アイリス』
  • 少しずつ短編で味わいたいなら:『不時着する流星たち』『人質の朗読会』『約束された移動』
  • 家族や生き物との関係に胸を締め付けられたいなら:『ことり』『ブラフマンの埋葬』『完璧な病室』
  • 実在の歴史や記憶と向き合いたいなら:『アンネ・フランクの記憶』『沈黙博物館』

どの一冊を選んでも、読み終えたあと、周りの世界がほんの少し違って見えるはずだ。ページを閉じたときの静けさを、ぜひ自分の中にしばらく置いておいてほしい。

FAQ(よくある質問)

Q1. 小川洋子をまったく読んだことがない。最初の一冊にいちばんおすすめなのは?

物語としての入りやすさと読後の温度のバランスで考えると、『博士の愛した数式』か『ミーナの行進』がやはり鉄板だと思う。どちらもストーリーが分かりやすく、登場人物に感情移入しやすい。一方で、小川洋子らしい「静かなずれ」もしっかり味わえるので、二冊読めば世界観がかなりつかめるはずだ。

Q2. ダークで不穏な作品が好き。どれから読むといい?

ひんやりした読後感を求めるなら、『妊娠カレンダー』『密やかな結晶』『ホテル・アイリス』『完璧な病室』あたりが候補になる。身体や記憶、支配と服従、家族の歪みといったテーマが、静かな筆致でじわじわと迫ってくるタイプの作品だ。ホラーではないが、「怖さ」がきちんと残る読書体験をしたい人にはこのラインが合うと思う。

Q3. 短編から少しずつ読みたい。どの短編集が読みやすい?

短編の読みやすさでいえば、『人質の朗読会』『不時着する流星たち』『約束された移動』の三冊がとてもおすすめだ。それぞれテーマやトーンは違うが、一話完結で満足感がありつつ、全体として通底する静けさがある。通勤時間に一編ずつ読んだり、寝る前に一話だけ読むようなスタイルにもぴったりだ。

Q4. 電子書籍やオーディオブックでも楽しめる?

小川洋子の文章は行間が魅力なので、電子書籍と相性がいい。フォントサイズを少し大きめにして、ゆっくり読むと、言葉のリズムがよく感じ取れるはずだ。また朗読との相性もよく、オーディオブックで聴くと、物語の「声」がはっきり立ち上がる。とくに静かな夜の時間に、灯りを落として聴くと、物語の世界に没入しやすい。

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