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【飛浩隆おすすめ本16選】代表作『グラン・ヴァカンス』『零號琴』から短編集と周辺アンソロジーまで【作品一覧】

飛浩隆の作品一覧を眺めても、最初の一冊が決められないことがある。長編で世界の骨格を掴み、短編集で“発明”の連打を浴びると、読書の手触りが変わる。難しさの正体が、情報量ではなく感覚の更新だと分かってくる。

 

 

飛浩隆という作家

飛浩隆のSFは、設定の奇抜さよりも、世界が成立するルールそのものを問い直す力に宿る。仮想世界、言語、身体、芸能、信仰。そうした要素が「背景」ではなく、人物の痛みや選択を押し流す潮として働く。読んでいるうちに、説明で理解する前に“慣れさせられる”感覚が来るのが特徴だ。いったん慣れてしまうと、現実側の当たり前が少しぐらつく。飛浩隆の読書は、物語の結末より先に、世界の見え方が変わる体験として残りやすい。

おすすめ本16選

まずは長編から(廃園の天使/世界の骨格)

1. 『グラン・ヴァカンス 廃園の天使1(ハヤカワ文庫JA)』

最初に立ち上がるのは、永遠の休暇という甘い言葉だ。光が強く、海風がやさしく、時間が腐らない。ところが、その楽園は“誰のための”楽園だったのか、読み進めるほどに問いがひっくり返る。

仮想リゾートという舞台は、現実逃避の装置であると同時に、現実そのものを定義する装置でもある。食べ物の匂い、肌にまとわりつく熱、砂粒のざらつき。そういうものが、データとして再現されるとき、身体はそれを現実として受け取ってしまう。

けれど、受け取ってしまうことが救いになるとは限らない。永遠が約束されるほど、飽きや傷や差別までが“固定”される。楽園はいつのまにか、記憶の牢屋に似てくる。

この巻の怖さは、破滅の派手さよりも、秩序がゆっくり歪む音にある。金属がきしむような小さな異音が、景色の中に混ざっていく。気づいた瞬間には、もう戻れない。

あなたが「仮想だから軽い」と思って読み始めるなら、その感覚が裏切られるはずだ。情報として生きる存在が、何を“本物”と呼ぶのか。答えは教えてくれないが、身体の側に残る。

言葉の密度は高いのに、冷たくない。むしろ、息が詰まるほど官能的だ。光の白さが目に痛い、という感覚まで文章が運んでくる。

読み終えて現実に戻ると、いつもの画面の明るさが一段だけ違って見える。便利さが増えたのではなく、現実を支える足場が見えてしまう。その見え方が、この作家の入口として強い。

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2. 『ラギッド・ガール 廃園の天使2(ハヤカワ文庫JA)』

続編は「次の事件」ではなく、「あの世界がどうやって作られたか」へ視線を潜らせる。開発秘話のような顔をして、身体感覚と欲望と格差が、技術の土台に染み込む瞬間を描き出す。

短編の束として読むと、世界の手触りが増える。海の色が変わるのではなく、海を“海と呼べる条件”が変わる。名前が変わるだけで、倫理がずれていく感覚がある。

表題作の鋭さは、強さの物語に見せかけて、強さが選べない構造を描くところにある。誰が頑丈で、誰が脆いのか。その線引き自体が、設計図の段階で決められていたらどうなるか。

断片は美しい。けれど、断片が美しいほど、全体が恐ろしくなる。小さな部品の精度が高すぎて、壊れ方まで予定に見えてくる。

あなたが一巻を読んで「難所は乗り切った」と感じたなら、ここで世界がもう一段だけ生々しくなる。理解が追いつかないのではなく、感情の置き場が揺れる。

読むコツがあるとすれば、説明を急がないことだ。分からない言葉が出てきても、音として口の中で転がす。すると、意味より先に温度が来る。

この巻を閉じると、一巻の“当たり前”が、当たり前ではなかったと気づく。続編が前提を掘り崩し、入口の足場まで揺らしてくる。その揺れが気持ちいい。

短編集で飛浩隆の「発明」を浴びる

3. 『象られた力(ハヤカワ文庫JA)』

一編ごとに世界のルールを“象り直す”短編集だ。理屈で殴るのではなく、理屈が皮膚の感覚に変わるところまで連れていく。読み終わりが終わりにならず、頭の中で増殖する。

短編の強みは、置かれた瞬間に空気が変わることだ。部屋の明かりが一段暗くなったように、世界のコントラストが変わる。その変化に理由を付けようとすると逃げられる。

飛浩隆の短編は、奇抜な仕掛けの“種明かし”を目的にしない。むしろ、種明かしが済んだ世界でも、人は生きるしかない、という現実が置かれる。そこが刺さる。

あなたが「短編は軽い」と思うなら、この一冊で考えが変わる。短いからこそ、逃げ場がない。息継ぎの場所が少ないぶん、読者の身体が先に反応する。

言葉の密度は濃いが、飾りではない。言葉が、世界を記述する道具ではなく、世界を押し曲げる力として働いている。その使い方が異様にうまい。

読みどころは、怖さの種類が一定ではないところだ。冷たい怖さ、湿った怖さ、祝祭のような怖さ。感情の質感が変わり続ける。

読後に残るのは「分かった」ではなく、「戻れない」だ。視点が一度ずれたあと、元の位置にすっと戻れない。そのズレを楽しめる人に向く。

4. 『自生の夢(河出文庫)』

生と死、言語と暴力、秩序と感染。そうしたテーマが、寓話ではなく生活の延長として迫ってくる短編集だ。読みながら「理解」より先に「圧」が来て、読後に妙に澄んだ余韻が残る。

この本の怖さは、外側から襲ってくる怪異だけではない。自分の内側が、知らない規則で動いていたことに気づく怖さがある。安全だと思っていた言葉が、急に刃になる。

短編は、世界を説明しないまま、世界に放り込む。読者は手探りになるが、その手探り自体が物語の一部になる。暗闇に目が慣れていく感覚が、読みの快感に変わる。

あなたが疲れているとき、この本は優しくない。けれど、優しさの形を変えてくれる。慰めではなく、現実の見取り図を差し出すタイプの優しさだ。

文章は硬質なのに、五感が濃い。金属の匂い、紙の乾き、喉の奥に残る苦さ。そういう細部が、思弁の骨格を支えている。

読み終えたあと、言葉を使うのが少し怖くなる。怖くなるが、同時に丁寧になる。発話の重さが変わる。

「難しい」と感じたら、短編ごとに間を空けるといい。湯気が引くのを待つみたいに、体温が落ち着いてから次へ行くと、深いところが拾える。

5. 『鹽津城(単行本)』

鹽津城

鹽津城

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近未来や異界へ飛ぶ前に、いまの生活の裂け目へSFが差し込んでくる作品集だ。地球に“悪魔”が現れるという大枠がありながら、焦点は怪物の派手さではなく、人の側が世界を組み替えていく過程に置かれる。

読んでいると、現実が少しだけずれる。家具の位置が変わったわけでもないのに、部屋の空気が違う。そういう“違和感の演出”がとても上手い。

この短編集が面白いのは、SFの装置を「驚き」で終わらせないところだ。驚いたあとに、生活が続く。続いてしまうからこそ、倫理や責任が逃げない。

あなたが日々のニュースに疲れているなら、この本は妙に効くかもしれない。世界が壊れる話ではなく、壊れた世界を前提に、どう振る舞うかが問われるからだ。

文章の触感は、乾いているようで湿っている。声が低く、言葉が重い。重いのに、読後は変に軽くなる。荷物を置いたような軽さだ。

短編ごとに温度差がある。冷え切った場面から、急に祝祭へ跳ぶ。跳んだ先でも、地面はぬかるんでいる。その足裏感が残る。

読み終えて外へ出ると、街の看板や標識が少しだけ不気味に見える。文字はいつも通りなのに、文字が持つ力が、こちらへ向き直る。

長編の最前線(零號琴)

6. 『零號琴 上(ハヤカワ文庫JA)』

異様に濃密な文化圏が、物語の推進力そのものとして立ち上がる長編だ。言語、芸能、権力、神話が絡まり、説明より先に“慣れ”が訪れる。まずは上巻で、その慣れを身体に通す。

読みやすさは優先されない。けれど、読みづらさが壁ではなく、風景の一部として機能している。分からない固有名詞が、異国の匂いとして残る。

上巻の核は、世界がどう美しく、どう残酷かを、手触りで覚えさせるところにある。美しさの側に毒がある。毒の側に、どうしようもない魅力がある。

あなたが「筋を追う読書」に慣れているなら、ここでは筋よりも湿度を追うといい。場面の空気、会話の温度、沈黙の重さ。そういうものが伏線になる。

登場人物の選択は、正解を当てるゲームではない。選び損ねたときの傷が、あとから響く。読者も同じように、選択の痛みを背負わされる。

文章は硬質だが、冷たくはない。むしろ、熱がこもっている。読んでいると、頬が少し熱くなるような熱だ。

上巻を閉じたとき、「続きが気になる」より先に、「この世界から出たくない/出たくないのに怖い」が残る。その矛盾が、次へ押し出す。

7. 『零號琴 下(ハヤカワ文庫JA)』

下巻は、上巻で積み上げた文化と運命の絡まりが、一気に収束する。ここで効いてくるのは謎解きの快感ではなく、想像力そのものが現実に触れてしまう怖さだ。

収束は、整理整頓ではない。むしろ、混線が極まった末に、別の形で一本になる。読者は「分かった」と言いたくなるが、その言葉が軽く感じる。

読んでいると、上巻で見落としていた微細な感触が戻ってくる。何気ない会話、置かれていた物、沈黙の間。そういうものが、意味ではなく重みとして効いていたと分かる。

あなたがこの長編に疲れたら、いったん声に出してみるといい。固有名詞の響きが、意味の前に身体へ届く。届くと、読みが進む。

終盤の強さは、劇的な場面にだけ宿らない。決定の瞬間より、決定を引き受けたあとの時間が強い。勝っても負けても残るものがある。

読み切ったあと、上巻をもう一度開きたくなる。知識を補うためではなく、感覚を確かめるために。最初のページの空気が、まるで別物に感じられる。

長編を読み終える体力が必要なぶん、得られるのは“達成感”ではなく“変質”だ。戻ってきた現実の輪郭が、少しだけ変わっている。

Audible

関連(初期短編・評論)

8. 『ポリフォニック・イリュージョン 飛浩隆初期作品集(河出文庫)』

デビュー作を含む初期短編と周辺テキストで、飛浩隆の起点をまとめて掴める一冊だ。後年の硬質さの芽が、すでに「音」「構造」「視点の転調」として鳴っている。

初期作品には、荒削りなところがある。その荒さが良い。完成された装置の美しさではなく、装置を作る手の動きが見える。

短編ごとに、視点の高さが変わる。足元の泥を見ていたかと思うと、急に天井の梁を見上げる。視線の移動が、そのまま世界の変形になる。

あなたが長編の濃度に圧倒されたなら、ここから入るのも手だ。短い距離で作家の癖が分かる。癖が分かると、濃度は怖さではなく武器になる。

言葉の選び方が、すでに独特だ。硬いのに、音が美しい。文を追うより、文に追われるような感覚がある。

読み終えると、作家の“完成”よりも、“継続している問い”が見える。飛浩隆が何度も同じ場所へ戻っていることが分かる。その戻り方が毎回違う。

初期を読むと、後年の作品が優しくなる。優しいというのは、分かりやすいという意味ではない。読者が迷うことまで織り込んだ優しさだ。

9. 『SFにさよならをいう方法(河出文庫)』

小説ではなく、読書日記・作家論・書評・対談などから思考の運びを辿る本だ。作品の難所が「難解」ではなく「狙って立てた斜面」だったと分かり、読み返しの体力が戻ってくる。

この本の面白さは、答えを出すより先に、問いの作り方を見せるところにある。何に引っかかり、どこで立ち止まり、どこで踏み込むのか。その足取りが具体的だ。

創作論として読むより、読者のための“呼吸法”として読むと効く。言葉が詰まったとき、どこで息を継ぐべきかが分かる。

あなたが飛浩隆を一冊読んで「好きだけど疲れる」と感じたなら、ここで疲れ方が変わる。疲れが減るのではなく、疲れの意味が変わる。

評論の文章もまた、小説と同じく密度がある。けれど、密度の方向が違う。世界を作る密度ではなく、世界を読む密度だ。

読み終えると、作品が少し近くなる。近くなるが、簡単になるわけではない。難しいまま、手が届く場所に置かれる。

アンソロジー・ムックで感触を延長する

10. 恐怖とSF(ハヤカワ文庫JA)

恐怖は、幽霊や怪物の顔をしてやってくるとは限らない。世界が世界であるための規則が、いつもの顔のまま少しだけズレる。そのズレに気づいた瞬間、身体のほうが先に凍る。この本は、その凍り方のバリエーションを集めた箱だ。

SFと恐怖が噛み合うとき、怖いのは「未知」そのものより、「理解が間に合わない」ことになる。説明が足りないのではなく、説明を待ってくれない速度で現実が変わる。読者は立ち止まったつもりなのに、床が動いている。

飛浩隆の短編「開廟」がここに置かれる意味は大きい。怪異を足すのではなく、扉の開き方そのものが怖い。開いた先に何があるかより、開いてしまったという事実が、生活の側へ滲む。

アンソロジーとしての面白さは、恐怖の輪郭が一つに定まらないことだ。冷たい恐怖もあれば、湿った恐怖もある。視界が暗くなる恐怖もあれば、逆に明るすぎて目が痛い恐怖もある。読者の中の「怖さの定義」が揺れる。

一編ごとに、SFの装置の使い方が違う。宇宙や未来が出てこなくても怖い作品があるし、最先端の技術が出てきても怖さが素朴な作品もある。その差が、恐怖の正体を立体にする。

読み方のコツは、一気に安全地帯へ逃げないことだ。分からないまま、場面の温度を一度身体に通す。喉が乾く、肩が硬くなる、その反応を先に受け取る。恐怖の源泉は、理屈より先にそこに出る。

飛浩隆の作品を「硬質さ」で覚えている人ほど、この一冊は別角度の入口になる。硬質さは冷たさではなく、刃の精度だと分かる。同じテーマでも、切れ方が違う。

読み終えたあと、暗い部屋が怖くなるというより、明るい部屋の輪郭が少し不穏になる。安心の条件が、いつものままではなくなる。その変化が、この本の後味だ。

11. ポストコロナのSF(ハヤカワ文庫JA)

「ポストコロナ」という言葉が、希望の看板ではなく、ひび割れの地図として置かれるアンソロジーだ。社会の断層が露出したあと、人は何を当たり前に戻し、何を戻せないまま抱えるのか。SFはその問答を、現実より少しだけ鋭い角度で突き出してくる。

隔離や感染という出来事は、単なる題材ではなく、距離の感覚そのものを変える。人と人の距離、言葉と感情の距離、身体と制度の距離。短編ごとに、その距離の測り方が違うのが面白い。

温度の揺れが良い。悲鳴に近い作品もあれば、静かな修復の作品もある。どちらが正しいという話ではない。揺れがあるから、読者自身の揺れも拾い直せる。

この手のテーマは説教臭くなりがちだが、SFは説教を避けて、状況を置く。状況が置かれると、読者は自分の反応を見せられる。嫌悪、安堵、諦め、苛立ち。その順番が、自分でも意外に見えることがある。

長編で濃度に疲れたとき、アンソロジーは短い呼吸をくれる。ただし呼吸は浅いままでは終わらない。一編読んで息を吸い直し、次の一編でまた別の場所が痛む。そういう循環が起きる。

刺さる読者像は、未来を見たい人というより、いまの生活をどう続けるか悩んだ人だ。続けるというのは、元に戻すことではない。戻れないものと同居することだ。その同居の形が、複数提示される。

読むときは、作品の結末より、途中で何が「当然」とされているかを眺めるといい。どの当然が守られ、どの当然が捨てられるのか。そこに、ポストの意味が出る。

読み終えたあと、ニュースの見え方が変わるというより、家の中の静けさの質が変わる。静けさが安心ではなく、調整の結果として見える。その視点が残る。

12. ベストSF2020(竹書房文庫)

一年の日本SFの気配を、短編という最小単位で束ねた定点だ。長編の大河では見えにくい、その年特有の湿度や焦りが、短距離走の息づかいとして残っている。ページを開くだけで、空気の粒が違う。

ベスト系の強みは、良し悪しのランキングより、作法の差が並列で見えるところにある。説明で押すのか、感触で押すのか。寓話へ寄るのか、現場へ寄るのか。読者は自分の嗜好の輪郭を、作品ではなく反応で知る。

飛浩隆が混ざっていると、文章の“硬さ”が硬さではなく精度に見えてくる。精度が高い文章は、冷たいのではなく滑らない。滑らないから、読者の思考が逃げる前に、感覚が捕まる。

初めて読む作家が多いほど、この一冊は役に立つ。なぜなら、相性の良し悪しが短時間で分かるからだ。合う作家は一編で十分に匂いが残る。合わない作家は、合わない理由が見える。どちらも収穫になる。

一方で、短編は刺さり方が鋭い。疲れているときに読むと、心がちょっとだけ引っかかる。引っかかった場所は、日常のどこかと繋がっている。読むことは、その繋がりを発見する作業になる。

この本は「今年はこうだった」と総括するためより、「自分はいま何に怯え、何に惹かれているか」を測るために向く。時代の気配は外側にあるのに、反応は内側から出る。その往復が起きる。

読み方のコツは、連続して読んで疲れたら、あえて目次へ戻ることだ。次にどんな作法が来るかを眺めるだけで、息が整う。短編の濃度を受け取る準備ができる。

読み終えると、作品群が「一冊の本」ではなく「一年の箱」になる。箱の中から、あとで何度も一編が立ち上がってくる。そういう残り方をする。

13. 行き先は特異点 年刊日本SF傑作選(創元SF文庫)

年刊傑作選は、作品集であると同時に「編集」という視点を読む本でもある。どの作品が並び、どの順番で置かれているか。その配置だけで、その年の不安の重心や、希望の出し方が見えてくる。

短編の強さは、単独で読むと孤高に見えるところだが、傑作選で読むと会話を始める。似たテーマでも言い方が違う。違う言い方が、同じ傷の別の面を照らす。読者はその照らされ方で、世界の奥行きを測れる。

「特異点」という言葉は、未来の派手な合図としても、現実の地味な転換点としても読める。日常の中の一歩が、気づけば取り返しのつかない方向へ続いていた、という怖さがある。傑作選は、その怖さを多方向から見せる。

刺さるのは、SFに詳しい人だけではない。むしろ、現実の変化の速さに疲れている人ほど刺さる。短編は変化を縮めて提示するから、読者は安全に一度だけ変化を経験できる。安全だが、無傷ではない。

読書体験としては、散歩に似ている。路地を曲がるたびに景色が変わる。変わる景色の中で、自分の呼吸がどう変わるかを確かめる。息が浅くなる作品もあれば、深く吸わせる作品もある。

読むときは、好きな一編を見つけたら、すぐ次へ行かずに少しだけ余韻を置くといい。余韻が残ったまま次へ行くと、作品同士が勝手に反応し、読みが一段深くなる。

読み終えたあと、作品の具体的な筋より、「この年はこういう気配だった」という体感が残る。その体感が、飛浩隆のような濃密な作家へ戻るときの地面になる。

傑作選は、棚に置いておくと強い。数年後に再読すると、当時は見えなかったことが見える。自分の変化も一緒に読める本だ。

14. アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選(創元SF文庫)

「傑作選」という看板は気恥ずかしいことがあるが、実際に役立つのは、読者のための地図としての機能だ。広い荒野を一人で歩くと迷うが、地図があると歩き方が分かる。歩き方が分かると、迷うこと自体が楽になる。

この巻を読む面白さは、ひとつの答えに収束しないことだ。未来は一方向ではない。恐怖も希望も一種類ではない。短編が並ぶことで、分岐の数がそのまま提示される。

複数作家を一冊で読むと、文章の“速度”がはっきりする。急加速する作品もあれば、ずっと低速で圧をかける作品もある。飛浩隆が好きな人は、低速の圧のほうに快感を覚えることが多いが、傑作選で速度差を浴びると、その快感の輪郭が明瞭になる。

読書体験は、窓を開ける感覚に似ている。外の空気が一気に入ってくる。冷たい空気も、湿った空気もある。入ってきた空気が、部屋の匂いを変える。自分の生活の匂いも、少し変わる。

気に入った作品は、気に入った理由を急いで言語化しないほうがいい。言語化を急ぐと、作品の余白が削れる。余白を残したまま読み進めると、後半で別の作品がその余白を満たしに来る。

逆に、苦手な作品があっても放置していい。苦手は、拒否ではなくレーダーだ。どこで引っかかったかだけを覚えておくと、飛浩隆の作品を読むときにも同じ場所が反応する。その反応が、読みの道具になる。

読み終えると、「何を読んだか」より「どんな角度で世界を見たか」が残る。その角度の集積が、作家を選ぶ目になる。作家を選ぶ目が育つと、作品一覧の歩き方がうまくなる。

一度読んで終わりではなく、年が経ってから読み直すと味が変わる。自分の生活が変わると、刺さる短編も変わる。傑作選は、その変化を確かめる装置にもなる。

15. SFにさよならをいう方法(読みの補助線としての再掲)

飛浩隆の小説で手が止まる瞬間は、多くの場合「分からない」ではなく「足場が見えない」だ。足場が見えないまま進むのは怖い。この本は、足場を建てるのではなく、足場の探し方を教えてくれる。

読書日記や書評、対談といった形式が混ざることで、思考の速度が見える。書き手がどこで引っかかり、どこで踏み込むか。その癖が露出する。癖が露出すると、読者の癖も同時に露出する。

評論を読む利点は、小説の難所が「理不尽」ではなく「設計」だと分かることにある。設計だと分かると、読者は怒らなくて済む。怒りが消えると、観察ができる。観察ができると、感覚の細部が拾える。

この本は解説書のふりをしない。だから頼りすぎないほうがいい。読みながら、自分の読み方を少しずつ変えるための道具として使うのが向く。小説に戻ったとき、読者の側の姿勢が変わっているのが理想だ。

刺さるのは、飛浩隆に限らない。濃度の高い作家を読むとき、読者は「速く読みたい」と「丁寧に読みたい」の間で揺れる。この本は、速さを諦める代わりに、丁寧さを快感へ寄せる。

読み返しにも強い。一度目は、何が書かれているかを追う。二度目は、自分がどこで反応したかを追う。三度目は、反応の理由が変わっていることに気づく。読者の変化が、テキストの上に浮く。

小説→評論→小説の往復は、読書の速度を落とす。その遅さが飛浩隆には似合う。遅い読書は、理解より先に感覚を拾う。拾った感覚が、次の長編の入口になる。

読み終えると、「さよなら」が拒絶ではなく更新の合図に見えてくる。古い読み方に一度だけ別れを告げて、新しい読み方で戻る。その循環を作れる一冊だ。

16. 文学ムック たべるのがおそいvol.7(書肆侃侃房)

ムックの良さは、作品が「単行本の顔」をしないところにある。隣に置かれた文章や特集の気配を吸って、同じ書き手でも別の呼吸になる。飛浩隆の短編が、単著とは違う気配で立ち上がるのは、そのためだ。

雑誌やムックは、文脈が流動的だ。読者も流動的だ。SFを読む人だけでなく、文学一般の読者が手に取る場に置かれると、作品は説明の仕方を変える。あるいは説明を捨てて、感触を前面に出す。そういう変化が起きやすい。

この一冊を読むと、本は内容だけでなく「置かれた場所」で変わると分かる。ムックの中の短編は、隣り合う文章と反射し合う。反射で光が強くなることもあれば、逆に影が深くなることもある。

飛浩隆を追いかける目的で読むなら、単行本の“完成形”とは違う、途中の呼吸を聴くような読書になる。完成した建物ではなく、工事中の足場から眺める景色に近い。足場だから見える角度がある。

刺さるのは、作品一覧を埋めたい人だけではない。むしろ「濃い長編はしんどいが、飛浩隆の体温だけは浴びたい」というときにちょうどいい。短い時間で、あの硬質さが肌に触る。

読み方としては、最初から最後まで通読するより、気になる名前や題材の箇所をつまんでいくのが向く。つまむと、ムックが“棚”として機能する。棚を作ると、読書が長く続く。

読後に残るのは、物語の筋というより、文章の質感だ。言葉の摩擦、沈黙の重さ、視点が切り替わる瞬間の冷え。そういうものが、夜の終わりまで残る。

単著へ戻るときの助走にもなる。短い距離で感覚を温めてから長編へ入ると、最初の数十ページの“寒さ”が軽くなる。読書の導線として使える一冊だ。

関連グッズ・サービス

本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。

電子書籍で短編をつまみ食いして、刺さったものだけ紙で残すと、棚が軽くなり、再読が増える。気分の良い夜に、読み返しの入口が増える。

Kindle Unlimited

移動中は耳で評論や対談を追うと、言葉の硬さが“声の抑揚”にほどけることがある。歩きながら難所が溶ける瞬間がある。

Audible

小さめの付箋と薄いノートは、飛浩隆の読書に相性がいい。理解できた箇所より、引っかかった箇所に印を残すと、次の読書が深くなる。

まとめ

長編は、世界の骨格を身体に通す読書になる。短編集は、その骨格を別の角度から殴ってくる。版違いとアンソロジーは、読書の息継ぎを増やし、戻ってくる場所を作ってくれる。

  • まず一冊で“世界の規則”を掴みたいなら:『グラン・ヴァカンス』
  • 短編で発明の連打を浴びたいなら:『象られた力』『自生の夢』
  • 異世界文化圏に沈みたいなら:『零號琴』
  • 読み方の補助線が欲しいなら:『SFにさよならをいう方法』

読書は、理解より先に感覚が動いたときに、いちばん長く残る。飛浩隆はその残り方が強い。次の夜のために、一冊だけ選んでみてください。

FAQ

飛浩隆はどこから読むのがいいか

迷ったら『グラン・ヴァカンス 廃園の天使1』が入口になる。世界の規則が崩れる快感があり、飛浩隆の“現実の定義を揺らす”感じが一番分かりやすく出る。短編から入りたいなら『象られた力』で、手のひらサイズの衝撃を受けるのもいい。

長編と短編、どちらが向いているか

長編は沈む読書になる。世界に慣れ、慣れたあとで足場が揺れる。その体験が好きなら長編が向く。短編は衝撃が速いぶん、余韻が長い。疲れているときでも一編だけで読書の濃度が上がるのは短編の利点だ。

難しく感じたときの読み方はあるか

分からない固有名詞を、無理に解釈しないほうがいい。音として転がし、場面の温度を先に拾う。読むペースも落として、短編なら一編ごとに間を空ける。補助線が欲しければ『SFにさよならをいう方法』を挟むと、難所の角度が変わる。

『廃園の天使』は順番に読むべきか

基本は1巻『グラン・ヴァカンス』からがすすめだ。2巻は世界の成り立ちや裂け目を短編で覗き込む構成なので、先に読むと“裂け目”が先に見えてしまうことがある。けれど、短編で掴みたい人は2巻からでも読める。

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