「あのとき、ああしていれば」と何度も思い返してしまう夜があるなら、川口俊和の物語はきっと刺さる。過去は変えられないのに、それでも人は後悔を抱えたまま前に進むしかない――そのどうしようもなさと、かすかな希望を、彼の小説は何度も描き直してくれる。
川口俊和とは?
川口俊和は、大阪府茨木市出身・1971年生まれの小説家・脚本家・演出家だ。もともとは舞台畑の人間で、自身が脚本・演出を手がけた舞台版『コーヒーが冷めないうちに』が杉並演劇祭大賞を受賞し、それが小説版誕生のきっかけになった。小さな喫茶店を舞台に、「過去に戻れる席」というギミックと、そこで交差する人々の人生を描いたこの物語は、本屋大賞ノミネートを経て映画化もされ、世界35カ国以上で翻訳されているという。
現在も「川口プロヂュース」として舞台やYouTube活動を続けていて、シリーズ最新作『やさしさを忘れぬうちに』までを含む「コーヒーシリーズ」は累計320万部突破。最近ではハリウッド映像化プロジェクトも進んでいると紹介され、「時間」と「後悔」をめぐる物語の書き手として世界的な広がりを見せている。
川口作品の核にあるのは、「現実は変わらない」という厳しいルールと、それでも変わってしまう「心」のほうだ。過去に戻っても、病気が治るわけでも、亡くなった人が生き返るわけでもない。それでも、もう一度あの時間に戻り、伝えられなかった言葉を口にすることで、残された側の世界の色が少しだけ変わる。その小さな変化を信じて、今日を生き直そうとする姿を、何度も何度も変奏してみせる作家、と言っていい。
作品ごとに設定は少しずつ違っても、共通しているのは「大きな事件」ではなく、日常のほころびや言えなかった一言を丁寧に拾っていくまなざしだ。だからこそ、読み終えた後も、自分の過去のある場面がふと浮かんでくる。誰に会いたいか、何を言い直したいか――その問いを静かに差し向けてくる作家だと感じる。
川口俊和作品の読み方ガイド
まず押さえておきたいのは、代表作である「コーヒーが冷めないうちに」シリーズだ。とある街の、とある喫茶店「フニクリフニクラ」にある“過去に戻れる席”と、その席をめぐる都市伝説。その不思議な設定を軸に、恋人・夫婦・親子・友人といった人間関係のドラマが連作短編として描かれていく。
シリーズの基本ルールは、どの巻でも共通だ。
- 過去に戻れるのは喫茶店の特定の席だけ。
- 会えるのは「その喫茶店を訪れたことのある人」だけ。
- どんな努力をしても、現実(いまの世界)は変わらない。
- コーヒーが冷めるまでに席に戻らなければ、未来に帰れなくなる。
この厳しいルールの上に、それぞれの巻で「嘘」「思い出」「さよなら」「やさしさ」などのテーマが重ねられる構成になっている。シリーズだけを追うなら、基本の読み順は次のとおりだ。
- ①『コーヒーが冷めないうちに』
- ②『この嘘がばれないうちに』
- ③『思い出が消えないうちに』
- ④『さよならも言えないうちに』
- ⑤『やさしさを忘れぬうちに』
この記事では、この「コーヒー」シリーズを軸にしつつ、同じく「時間」「記憶」「後悔」を扱う周辺作や、新境地のファンタジー作品、戯曲ベースの一冊までをまとめて紹介する。シリーズから入るか、単独長編から入るかで読後の印象も変わるので、自分のいまの心の状態に合わせて選んでほしい。
川口俊和おすすめ本リスト
1. 『コーヒーが冷めないうちに』
シリーズの原点にして、すべての物語の源泉がここにある。舞台はレトロな喫茶店「フニクリフニクラ」。その店の、とある席に座ると、自分が望む過去の時間にだけ戻ることができる――ただし、いくつもの「めんどくさい」ルールがつきまとう。過去に戻っても現実は変わらないし、会えるのはこの店を訪れたことのある人だけ。席を立つこともできず、制限時間はコーヒーが冷めるまで。
この設定だけを見ると、いかにもファンタジーやSFのギミックに見えるが、実際に描かれているのは徹頭徹尾「人間関係」だ。恋人、夫婦、姉妹、親子――4つの短編それぞれで、誰かに言えなかった一言、飲み込んでしまった思いが、コーヒーの湯気とともに立ち昇る。過去に戻っても、亡くなった人が生き返るわけではない。それでも、「あのとき言えなかったけれど、本当はこう思っていた」と伝えることで、残された側の人生の意味が変わっていく。
読みながら強く感じるのは、「変わるのは現実ではなく、自分の中の記憶の位置づけなのだ」ということだ。過去に戻る前と後で、写真に写っている風景はまったく同じなのに、その写真を見る自分の心だけが違っている。そういう微妙な変化を、川口俊和は、ときにコミカルに、ときに容赦なく描き分ける。ある話では、過去に戻っても何も解決しないように見えるのに、それでも最後の一行で胸がじんとする。
読者として面白いのは、「もし自分がこの喫茶店に行けたら誰に会いに行くか」という妄想が止まらなくなることだ。読み終えた夜、自分のこれまでの人生の中で「戻りたい時間」を自然と探してしまう。大きな人生の岐路だけでなく、些細な喧嘩や、何気なく無視してしまったLINEの通知まで思い出すかもしれない。
物語のテンポは軽く、文章も平易なので、本を読みなれていない人にも手に取りやすい。その一方で、「後悔」と「赦し」を扱うテーマ自体はずしりと重いから、油断していると不意に涙腺をやられる。初めて川口作品に触れるなら、まずはこの一冊から入るのがいちばん素直だと思う。
2. 『この嘘がばれないうちに』
シリーズ第2弾のキーワードは「嘘」だ。不思議な喫茶店フニクリフニクラを訪れるのは、今回は4人の男たち。不器用で優しい嘘を抱えた彼らが、「ばれてはいけない嘘」と「本当はばれてほしい嘘」のあいだでもがく姿が描かれる。
タイトルだけ見ると「嘘をつく人」が悪いように思えるが、物語を読み進めると、「守るための嘘」「相手の未来を思ってついた嘘」が多いことに気づく。たとえば、病気の真実を隠した父親、子どもに迷惑をかけたくなくて本音を飲み込んだ親。そうした「優しい嘘」は、やがて重荷になり、関係をゆがめてしまう。それでも、喫茶店の席で過去に戻り、ほんの少しだけ本音を漏らすことで、ようやく息ができるようになる。
印象的なのは、「嘘そのものを断罪しない」トーンだ。読んでいて、「自分も誰かにこういう嘘をついたことがあるかもしれない」とヒヤッとする瞬間が何度もある。それでも物語は、「嘘=悪」とは単純に言わない。むしろ、その嘘の背後にある臆病さや愛情を静かに照らし出し、「いまからでも遅くない」とそっと背中を押すような終わり方を選んでいく。
前作を読んでいると、喫茶店のマスターや白いワンピースの女など、おなじみの顔ぶれの変化も楽しめる。シリーズの世界観が少しずつ広がり、登場人物同士の縁がつながっていく感じは、長く付き合うシリーズの醍醐味だ。個人的には、親子を扱ったエピソードが特に刺さった。親から子へ、子から親へ、どのタイミングで何を伝えるべきだったのか――読み終わったあと、自分の親や子どもの顔がふと浮かぶ。
「嘘」というテーマに心当たりがある人、あるいは「本音をうまく言葉にできない」と感じている人にこそ読んでほしい一冊だ。軽いエンタメ小説を装いながら、心の奥をじっくり刺してくる。
3. 『思い出が消えないうちに』
第3弾のテーマは「思い出」だ。今回フニクリフニクラを訪れるのは、結婚を考えていた彼氏と別れた女、22年前に亡くなった親友に会いに行く男、大事なことを伝えていなかった夫、離婚した両親に会いに行く少年の4人。どのエピソードも、「あのとき言えなかった一言」が長い時間を経て再び浮かび上がる。
この巻で特に印象的なのは、「もし、明日世界が終わるとしたら?」という問いだ。作中に登場する一冊の本が、その問いを100の質問として提示し、人々に「自分のなかの大切な思い出は何か」を突きつける。実際に読んでいるこちら側も、その質問を自分ごととして考えざるを得なくなる。
過去に戻っても、現実は変わらない。それはシリーズ通しての大前提だが、この巻では「それでも消えないもの」としての思い出が何度も強調される。幼いころの友だちの笑顔、親と交わした何気ない会話、恋人と行ったどこにでもあるファミレス。そうしたささやかな記憶が、人生の最後にふとよみがえる。そのとき、自分はそれを「よかった」と思えるだろうか、それとも「なぜあのとき」と悔やむだろうか。
個人的に、4つのエピソードのうち一番胸に残ったのは「親友」にまつわる話だった。親友だと思っていた相手に伝えられなかった感謝や嫉妬、意地。大人になってしまうと、もうその関係は取り戻せないはずなのに、時間旅行という仕掛けを通して、ほんのわずかな言葉のやりとりが再び許される。その瞬間の温度は、読んでいて背筋が少し震えるほどだった。
「過去の思い出に救われたことがある」「忘れたいのに忘れられない記憶がある」という人にとって、この本はかなり響くと思う。1巻・2巻よりも、ややしっとりとした余韻が長く続く一冊だ。
4. 『さよならも言えないうちに』
シリーズ第4弾のテーマは、タイトルどおり「さよなら」だ。「最後が来るとわかっていたのに、なぜあの日がそうだと思えなかったんだろう」というコピーが示すように、「別れの瞬間」をめぐる後悔がこれでもかというほど描かれる。家族に、愛犬に、恋人に会うためにフニクリフニクラを訪れる4人の男女。それぞれが、言えなかった「さよなら」を胸に過去へ向かう。
各話のモチーフも鮮烈だ。「大事なことを伝えていなかった夫」「愛犬にさよならが言えなかった女」「プロポーズの返事ができなかった女」「父を追い返してしまった娘」。どれも、一度読み始めたら途中でやめられない強さがある。特に、愛犬の話は、ペットを飼った経験がある人なら胸をえぐられる。人間同士の別れ以上に、「もう会えない」と知りながら見送ってしまったあの瞬間がよみがえるからだ。
この巻では、フニクリフニクラの都市伝説のルールが再確認されると同時に、「さよなら」の意味が少しずつ拡張されていく。物理的な別れだけでなく、関係の終わり、過去の自分との決別。登場人物たちは、過去に戻ることで、相手に言えなかった言葉と、言えなかった自分をようやく見つめ直すことになる。
読んでいてつらくもあり、救いでもあるのは、「間に合わなかったさよなら」ばかりが描かれているのに、この本自体が一種の「遅れて届いたさよなら」として機能していることだ。現実にはもう伝えられない誰かへの思いを、読者自身が自分の中で言い直すきっかけになる。そういう意味で、この巻はシリーズの中でも感情の振れ幅が大きい。
身近な人を亡くした経験があると、ときに読むのが苦しくなるかもしれない。その一方で、喪失を抱えたまま時間だけが過ぎていく感じに疲れている人には、きちんと涙を流すきっかけをくれる本でもある。少し心に余裕のあるタイミングで、ゆっくり味わってほしい一冊だ。
5. 『やさしさを忘れぬうちに』
シリーズ第5弾で掲げられるテーマは「やさしさ」だ。キャッチコピーは「『いつか』なんて待たずに、すぐ会いに行けばよかった」。結婚を許してやれなかった父、バレンタインチョコを渡せなかった女、離婚した両親に笑顔を見せたい少年、名前のない子どもを抱いた妻――止まってしまった「今」を未来へと動かすため、4人の男女が過去へ戻る。
前の巻までに比べると、この本には「生きている相手に会いに行く話」が多い印象がある。亡くなった人との再会だけでなく、「まだ間に合う相手」へ向けて、恥ずかしさや恐怖を乗り越えて一歩踏み出そうとする物語が並ぶ。名前をつけられずにいる赤ん坊を抱えた妻が、亡くなった夫のもとへ向かう話などは、その象徴だろう。
全体を通して胸に残るのは、「やさしさには、いつも少しの臆病さが混じっている」という描き方だ。相手を思うからこそ距離を取ってしまう父親、迷惑をかけたくなくて本音を隠す子ども。彼らの選択は一見「不親切」にも見えるのに、その裏側には、「嫌われたくない」「傷つけたくない」という願いが見え隠れする。物語は、そのねじれたやさしさを、過去への小さな旅を通して、ようやくまっすぐな形に変えていく。
個人的には、父親が娘の結婚を反対してしまったことを何年も悔やみ、未来の娘に会いに行く話にぐっときた。自分のプライドや価値観を優先してしまったあの瞬間を、時間が経ってから「間違いだった」と認めるのは、とても勇気がいる。その勇気を、時間旅行という形でそっと支えるのが、このシリーズの優しいところだと思う。
シリーズを通して読むと、『やさしさを忘れないうちに』は一種の「答え合わせ」のようにも感じられる。過去の巻で描かれたさまざまな後悔や喪失を経て、それでもなお、人は誰かに優しくしようとする。そのこと自体が、もう一つの奇跡なのだと静かに教えてくれる一冊だ。
関連グッズ・サービス
本を読んだ後の学びや余韻を生活に根づかせるには、読み方そのものを少し変えてみるといい。ここでは、川口俊和作品と相性のいいサービスやアイテムをいくつか挙げておく。
まずは音声で物語を味わえるサービスだ。フニクリフニクラの静かな空気感や、登場人物たちの感情の揺れは、朗読で聴くとまた違った表情を見せる。
通勤時間や家事の合間に『コーヒーが冷めないうちに』シリーズを流しておくと、同じエピソードでも文字で読むときとは違うタイミングで泣きそうになる。声の抑揚一つで、登場人物の本音がより立体的に伝わってくる感覚がある。
つぎに、シリーズをまとめて読み進めたい人には読み放題サービスも相性がいい。後悔や記憶をテーマにした作品を続けて読むとさすがに重くなるので、合間に別ジャンルの本を挟みながら読むとちょうどいい。
紙の本で一冊目を読んで気に入ったら、二冊目以降は電子書籍で持ち歩く、という読み方もありだと思う。夜中にどうしようもなく過去を思い出して眠れないとき、枕元の端末からすぐに続きを開けるのはかなり心強い。
物理的なアイテムで言えば、やはり「コーヒー」だ。お気に入りのマグカップと、少しだけいい豆やドリップバッグを用意して、家の一角を自分だけのフニクリフニクラにしてしまう。ページをめくる手と、冷めていくコーヒーの温度。物語の中の時間と、自分の時間が重なる瞬間を、わざと演出してみるのも楽しい。
そしてもし、家族で本の感想をシェアしたいなら、リビング用に一台Kindle端末を置いておくのも手だ。誰かが読みかけているページや付箋の位置から、「あ、いまこの話で泣いてるな」と想像できる。それもまた一つの、ささやかな「時間旅行」だと思う。
まとめ
川口俊和の作品は、派手な奇跡を起こさない。過去に戻っても、病気は治らないし、亡くなった人も生き返らない。それでも、もう一度だけあの時間に立ち戻り、言えなかった言葉を口にすることで、「いま」の世界が少しだけ違って見えるようになる。その変化の微妙な温度差を、何度も何度も描き続けている作家だと感じる。
読み終えたあと、身体のどこかがじんわりと温かいのに、同時に胸の奥がきゅっと締めつけられているような感覚が残る。フニクリフニクラの席に座ることはできないけれど、「誰に会いに行きたいか」「何を伝え直したいか」を考えるだけで、自分のこれまでの時間の輪郭が少し変わる。その意味で、川口作品は読者にとっても小さな時間旅行の装置になっている。
最後に、目的別にざっくりおすすめをまとめておく。
- まず一冊だけ読むなら:『コーヒーが冷めないうちに』
- 泣きたい気分の日に:『さよならも言えないうちに』『やさしさを忘れないうちに』
「あの日に戻れたら」と思ったことがあるなら、その感情ごと抱えたまま、一冊目を開いてみてほしい。きっと、自分の人生のどこか一場面と、物語のどれか一話が、不意にぴたりと重なる瞬間があるはずだ。
FAQ(よくある質問)
Q1. 「コーヒーが冷めないうちに」シリーズは、必ず出版順に読んだほうがいい?
物語ごとの完結度が高いので、極端に言えばどこから読んでも楽しめる。ただし、喫茶店フニクリフニクラの常連客やマスター、白いワンピースの女など、人物の背景や関係性は巻を重ねるごとに少しずつ深まっていく。喫茶店そのものの変化や、登場人物たちの成長を追いたいなら『コーヒーが冷めないうちに』→『この嘘がばれないうちに』→『思い出が消えないうちに』→『さよならも言えないうちに』→『やさしさを忘れないうちに』の順で読むのがいちばん素直だと思う。
Q2. かなり泣けると聞いて心配。メンタルが弱っているときでも読める?
確かに「死」や「別れ」「後悔」といった重いテーマを扱う話が多いが、救いなく終わるエピソードはほとんどない。過去は変えられないけれど、残された側の心が少し前を向くところで物語が終わるので、読後感はむしろ優しい。ただし、自分の身近な人の死別と重なるようなエピソードもあるので、不安ならまず『コーヒーが冷めないうちに』や『この嘘がばれないうちに』の、比較的ライトな話から試してみて、きつそうなら無理をしないほうがいい。
Q3. 映画やドラマ版と小説版、どちらから触れるのがおすすめ?
映像版は、時間旅行のルールや登場人物をうまく整理していて、非常に分かりやすい。まず映画版で世界観をつかみ、そのあとで小説版を読むと、細かな心理描写や設定の違いを楽しめる。逆に、小説ならではの余白を大事にしたい人や、自分のイメージで登場人物の顔を描きたい人は、本から入るほうが向いている。どちらにしても、映像と本で受け取る印象が少し変わるので、両方味わうのがおすすめだ。
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