山を歩くとき、なぜ自分はこんなにも息をしているのだろうとふと思う瞬間がある。街ではほとんど感じないはずの、身体の奥で鳴る小さな鐘の音。それが、松永K三蔵の小説を読むと、不思議と胸の奥で何度も響き出す。会社で削られる心、帰宅後の沈黙、そして休日の山へ向かう衝動。そんな私たちの日常の隙間に、ひっそりと“生の手触り”を戻してくれるのが、彼の作品世界だ。
松永K三蔵とは?
1980年、茨城県生まれ。関西学院大学文学部で学んだ後、建設業界に入り、外装修繕や現場管理に関わりながら小説を書き続けてきた。デビューのきっかけとなったのは、雑誌『群像』2021年7月号に掲載された短編「カメオ」。翌年、群像新人文学賞の優秀作に選ばれ、静かに注目され始めた。
松永の作品には、「仕事」と「生活」、そして「山」という、いわば“平凡な人間の三つの足場”が淡々と、しかし鋭く描かれている。主人公たちは特別な人物ではなく、どこにでもいるサラリーマンだ。職場の空気、家庭の不安、日々の睡眠不足、週末にだけ訪れる自由。その中で彼らは、なぜか山へ足を向けてしまう。そこに明確な理由はない。ただ、生きるための“揺り戻し”が必要なのだ。
芥川賞を受賞した『バリ山行』はその集大成と言える。山で息を吸うたび、同時に街の苦しさを思い知らされるような緊張感。人生のほころびを埋めるように歩く登山。その中で浮かび上がってくる“生の輪郭”。松永K三蔵の小説は、派手さはないが、読み手の身体にしっとりと染みこむ。
読書中、ふと「これは自分自身の話では?」と思ってしまう。そんな奇妙な既視感が、作品のどこかに潜んでいる。読むことで、自分の生活を少しだけ遠くから眺め直すことができる。松永K三蔵の魅力は、まさにその距離感にある。
おすすめ本2選
1. 『バリ山行』(講談社)
第171回芥川賞を受賞したこの作品は、六甲山を舞台にした山岳小説であり、同時に会社員として生きる者の“密かな葛藤”の物語だ。主人公・波多は、新田テック建装に転職して2年。内装リフォーム出身という経歴のせいで、どこか職場で浮いた存在だ。仕事はそつなくこなすが、同僚との距離は空いたまま。その空白を埋めるように、ある日誘われるまま六甲山登山に参加する。
最初はただの社内イベントだった。ところが、息を切らしながら登っているうちに、波多の心の奥で何か小さな灯がともる。山道のざらつき、湿った土の匂い、人の気配が薄れていく感覚。それが、彼の生活の風景とはあまりに違っていて、妙に胸を刺した。
そして物語の核心にいるのが、同じ会社のベテラン社員・妻鹿だ。奇矯で扱いづらい人物として同僚たちから避けられているが、彼には「バリ山行」という隠れた趣味がある。整備された登山道ではなく、あえて藪に踏み込む危険なルート。地図にもない道。それは、普通の山の楽しみ方とはまったく別の世界だった。
妻鹿が選ぶのは“外れた道”だ。それは単なる冒険ではない。彼がそこに何を求めているのか、波多は徐々に理解し始める。山の危険よりも、むしろ街の方が恐ろしい。会社人生の縮こまり方、家庭の重圧、未来への不安。そうした静かな“生活の圧力”から、ほんの一瞬でも逃れるために、彼は道の外へ踏み出すのだ。
読んでいると、「山に行く」という行為が、単なる趣味ではなく“生活の呼吸”そのものだと気づかされる。繰り返される波多の息遣い。その一歩ごとに、読者の胸のどこかで乾いた音が響く。
この小説がすごいのは、山の描写が美しいだけではないところだ。会社での立ち位置、同僚との微妙な距離、会議の空気、帰宅後の重たい沈黙。そうした風景があまりにリアルで、思わず「わかる」と呟きたくなる。山と街の落差が、そのまま人生そのものの揺れを描いている。
読み終えたとき、あなたもきっと近くの低山を検索しているはずだ。山の匂いを、ただ嗅いでみたくなる。そんな不思議な余韻を残す。
2. 『カメオ』(講談社)
『カメオ』は『バリ山行』より前に書かれたデビュー作で、すでに松永らしさが濃厚に漂っている。不条理と可笑しさが同時に押し寄せるような小説で、会社と現場の空気が妙に重く、息苦しいのに、なぜか読みやすい。
主人公は、本社から倉庫建設の急ぎの命令を受けて現場に入る。しかし、隣地に住む犬連れの男・カメオが、理不尽に弟子入りのように立ちはだかる。「なぜ?」「どうして?」という疑問は最後まで明確な言葉にならない。だが、その曖昧さこそ現実的だ。仕事の現場では、説明不能な障害が唐突に現れ、それを乗り越える理由もないまま人は走らされる。
不条理であるはずなのに、カメオという男は妙に魅力的だ。こちらが意図していない方向へ物事を捻じ曲げ、勝手にルールを作り替えてしまう。だが、それは社会の“理屈では語れない部分”へのメタファーのようでもあり、読むほどに、その存在の意味がじわりと滲み出る。
文章は滑らかで、純文学作品にありがちな硬さがない。現場の風の温度や、昼下がりの工事現場のざらっとした空気が、まるで自分の体の表面に貼りつくように伝わってくる。そこに、松永の才能を強く感じる。
『バリ山行』と同じく、“仕事をする人間”の身体感覚が核にある。登山の代わりに工事現場。危険と隣り合わせなのはどちらも同じ。生活と労働の狭間で揺らぐ瞬間が、どちらの作品にも共通している。
松永作品に流れるテーマの核
松永作品を読み進めると、いくつかの共通点が浮かび上がる。そのひとつが、「生活と仕事の境界線が極めて薄い」ということだ。波多にとって、山での一歩は街での息苦しさと密接につながっている。『カメオ』の主人公が現場で味わう理不尽さも、生活の延長線上にある。どちらも、職場での“逃げ場のなさ”を抱えた者が、どこで呼吸を取り戻すかの物語だ。
松永作品は、派手な事件が起きない。死者も出なければ、大きな裏切りもない。けれど読者は、なぜか心のどこかが震える。その理由は、登場人物の“微弱な違和感”が、読み手の自分自身の違和感とつながるからだ。生活のどこかに引っかかる小さな棘。それが物語を通じて言語化される瞬間、胸の奥で静かな音が鳴る。
そして何より、「歩く」という行為が重要だ。登山であれ、現場での往復であれ、身体を動かすことが、登場人物たちの心の鎮静剤になっている。読む側もまた、彼らの歩幅に合わせて、一歩一歩ついていくような感覚に包まれる。
文体について
松永の文体は、静かで澄んでいる。情景描写が多いわけではないのに、景色が浮かぶ。感情を過剰に語らないのに、心が動く。それは“余白の多い文章”であり、読者に想像の余地を委ねるタイプの小説だ。純文学の中では珍しく、読みやすさと奥行きを両立させている。
読者層別・読み方ガイド
・仕事に疲れている人 → 波多の歩くリズムが、驚くほど呼吸を整えてくれる。
・自然が好きな人 → 六甲山の描写が、日常の湿り気をそっと拭ってくれる。
・純文学に不慣れな人 → 文体の透明度が高いので、入り口として最適。
・都市生活に息苦しさを覚える人 → 「街の方が怖い」という感覚に、深く頷くだろう。
・静かな読書が好きな人 → 文章の余白に身を寄せるような時間を得られる。
【後編】
関連グッズ・サービス
本を読んだ後の余韻を生活に落とし込むなら、読書時間を支える道具も揃えておきたい。静かな山の気配を感じる小説だからこそ、読む環境が整うと作品世界の奥まで入りやすい。
- Kindle端末:軽くて目が疲れにくいので、移動中でも松永作品の“余白”を味わえる。
- Kindle Unlimited:純文学系のバックナンバーを探すのに便利。
- Audible:登山小説との相性が抜群。散歩中に聴くと、風景の見え方が変わる。
まとめ
『バリ山行』も『カメオ』も、派手な物語ではない。しかし、読み終えたとき、自分の呼吸の深さが変わっている。静かな場所で、ゆっくりと体の重心が戻ってくるような、そんな読後感がある。松永K三蔵は、現代の“働く人”の体温を見事にすくい上げる作家だ。
気分で選ぶなら:『バリ山行』 じっくり読みたいなら:『カメオ』 短時間で読みたいなら:どちらもおすすめ
山の匂いを思い出したとき、またページを開きたくなる。そんな静かな衝動を、どうか大切にしてほしい。
FAQ
Q. 松永K三蔵は山岳小説作家なの?
A. 山だけがテーマではない。生活全体を描く作家で、山はその象徴として使われている。
Q. 純文学は難しい気がする…
A. 松永作品は文体が非常に透明で、読書初心者にも向いている。
Q. 『バリ山行』と『カメオ』、どちらから読むべき?
A. デビュー作から読めば発見が多いが、芥川賞作の読みやすさは圧倒的。どちらでも大丈夫。
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