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【高田崇史おすすめ本15選】代表作「QED」から神の時空・古事記異聞まで、作品一覧を読み順で案内

高田崇史を読む楽しさは、事件の謎がほどける瞬間に、古典・歴史・信仰の層まで一緒に開いていくところにある。作品一覧を眺めて気になりつつ、どこから入ればいいか迷う人へ向けて、入口になりやすい15冊を並べた。

 

 

高田崇史という作家

高田崇史の物語は、知識を振りかざして読者を置き去りにするのではなく、知識そのものを「事件の手触り」に変える。人が死ぬ。嘘が混じる。利害が絡む。その生々しい現代の裂け目に、和歌や絵巻、神社の由来や地霊のような“古いもの”が滑り込んでくる。古いものは飾りではなく、動機にも、隠蔽にも、怨念にもなる。だから読後には、観光地の名所が、別の顔を持ち始める。

デビュー作の「QED」シリーズは、薬剤師で博覧強記の桑原崇(タタル)と、棚旗奈々の組み合わせが核だ。論理は冷たいのに、語り口には妙に体温がある。説明が長くなる巻でも、最後に「そういうことだったのか」と腑に落ちる場所へ着地させる執念がある。そこから派生して、逃走と追跡の運動量を上げた「カンナ」、霊性と史実が衝突する「神の時空」、神話そのものを読み替える「古事記異聞」へと、興味の射程を広げていく。

おすすめ本15選

QEDの余韻を深める

1. QED 百人一首の呪(講談社文庫)

最初の一冊に向くのは、事件の入口がわかりやすく、なおかつ「高田崇史の速度」がはっきり出るからだ。百人一首の札を握りしめたまま殺された男。美しい札が、死の小道具として置かれる瞬間の不穏さが、まず強い。

探偵役の桑原崇は、派手に走らない。声を荒げない。相手の言葉の隙間に、静かに針を差し込む。棚旗奈々は、読者の目線に近い温度で、その針の行き先を追いかける。二人の距離感が気持ちよく、シリーズの型がすっと身体に入ってくる。

百人一首は、暗号の道具というより、時間の層として働く。和歌が詠まれた瞬間の感情、編集された意図、残された札の並び。その“人間の癖”が、現代の嘘と接続される。知識があってもなくても読めるのは、札がまず「不気味な現物」として提示されるからだ。

読みながら、頭の中に畳の匂いが立つ。札を払う音、紙の擦れる感触。そういう小さな感覚が、殺人の冷たさと隣り合ってしまうのが、この巻の怖さでもある。

そして面白いのは、最後に残るのが“犯人当て”の快感だけではないところだ。美しいものが、どうしてこんなふうに人を縛るのか。執着の形が、事件の外側までにじんでくる。

理屈っぽい作品が苦手な人ほど、ここで試すといい。理屈が先に立つのではなく、死体の不自然さが先に立つ。だからページをめくってしまう。

読み終えたあと、百人一首が少しだけ怖くなる。けれど同時に、怖いものを“考えてしまう”楽しさも残る。

古典が遠いままの人にも効く。遠いからこそ、事件に混ぜると異物感が出る。その異物感が、推理の推進力になる。

2. QED 六歌仙の暗号(講談社文庫 た 88-2)

和歌が「読める」ことと、和歌が「解ける」ことは違う。この巻は、その違いを事件の形にしてしまう。大学を震わせた連続怪死の記憶、タブー視される研究、そして“呪い”めいた言葉。知の世界の湿り気が、物語の床を冷やす。

六歌仙という言葉に身構えるかもしれないが、必要なのは暗記ではない。誰が、何を隠したがっているのか。隠蔽の動機は現代的で、だから読み手は置いていかれない。和歌は、その隠蔽が成立するための装置として扱われる。

高田崇史の面白さは、暗号を「ひらめき」だけにしないところだ。読みの癖、選び方の癖、歴史の残り方の癖。癖を積み上げて、論理の橋を架けていく。橋が架かるまでの間、読者はずっと水面の暗さを見ている。

奈々が踏む現場の足取りがいい。学内の空気、誰かの視線、言い訳の匂い。知の場で起きる事件は、血よりも言葉が怖い。言葉が凶器になる瞬間を、丁寧に描く。

そして桑原崇の言い方が、やけに静かだ。静かな声で、相手の逃げ道を塞ぐ。責めるのではなく、証明する。そこに「QED」の気分が立つ。

読むのに疲れたら、和歌そのものを味わおうとしなくていい。わからないまま進んでも、物語は運ばれる。わからないことが、むしろ不安として効く。

読後、紙の上の短い言葉が、長い影を落とす感覚が残る。短いからこそ、曲げられる。曲げられるからこそ、人を殺せる。

頭を使ったあと、少し寂しさが来る巻でもある。知が光るほど、闇がくっきり出る。

「シリーズを続けられるか不安」という人は、ここで判断していい。知識の量ではなく、事件の手触りが好きかどうかが、はっきり出る。

3. QED 東照宮の怨(講談社文庫 た 88-4)

東照宮という巨大な場所を、単なる舞台にしない。建築、信仰、政治、そして人が抱く“上に立ちたい”という欲。そこに連続強盗殺人を絡め、謎が謎を呼ぶ複合体として転がしていく。

この巻の良さは、観光名所の「明るさ」が、読み進むほどに裏返っていくところだ。金の飾り、整えられた参道、写真に写る荘厳さ。その明るさの裏に、誰が何を封じたのかを考え始めると、目が冴えてくる。

事件の線は現代に引かれているのに、手掛かりは過去へ伸びる。過去へ伸びるほど、過去の側が「動機」を持って迫ってくる。歴史が背景ではなく、当事者として現れてしまう感覚がある。

桑原崇の語る推理は、講義のようでいて、妙に感情がある。史実の揺れや伝承の歪みを扱うとき、彼は断言しすぎない。その“断言しない強さ”が、かえって不気味さを増す。

読みどころは、巨大なものを巨大なまま扱う胆力だ。東照宮を小さなトリックに落とさない。大きなものには大きな理由がある、と信じたままページを進めさせる。

歴史ミステリーが好きでも、苦手でも、ここは一度踏んでいい。苦手な人は「語りの量」に身構えるが、語りが増えるほど、事件の輪郭も濃くなるタイプだ。

読んでいる最中、耳の奥で鳴るのは観光地のざわめきではなく、夜の境内の静けさになる。人がいなくなった場所ほど、怨の形が見えてしまう。

読み終えたあとに残るのは、正義の気持ちよさではない。勝った者が作った物語の硬さ、その硬さを崩すには別の物語が要る、という冷えた納得だ。

一冊で“重い高田崇史”を味わいたいなら、ここが早い。

4. QED 河童伝説(講談社文庫 た 88-8)

河童という怪異の顔を借りて、現代の血の匂いを濃くする巻だ。手首や腕を失った遺体が川に浮かぶ。噂話にしやすい題材が、最初から「事件」として突きつけられる。

怪談めいた話は、往々にして説明を拒む。この巻は逆で、説明しようとするほど、説明の穴が増えていく。河童伝説が残る土地、祭りの熱、人の移動。土地の気配が、論理の外側から背中を押してくる。

高田崇史の民俗の扱いは、怖がらせるための小道具ではない。民俗は「人が信じた痕跡」であり、その痕跡が、犯罪の隠れ蓑にも、告白の道にもなる。信じたことが、善でも悪でもなく働いてしまうのが、ぞっとする。

奈々たちの視線が、怪異に寄りすぎないのもいい。怖いのは河童ではなく、人間のほうだという現実が、ずっと揺らがない。だから最後に、怪異の輪郭が出たときも、現実の延長として受け取ってしまう。

川という場所が持つ、境界の感覚も強い。陸と水、こちらと向こう、今と昔。境界は、踏み外すと戻れない。事件は、境界から始まる。

読む速度は上がる。説明が多いのに、ページが進む。血の気配が近いからだ。知識の気持ちよさより、怖さのほうが先に来る。

疲れた日に読むなら、昼間ではなく夜がいい。窓の外が暗いほど、川面の暗さが想像しやすい。

読み終えたあと、河童の絵が笑って見えなくなる。笑いの裏に、何が隠れているか考えてしまう。

シリーズの中でも、民俗と暴力がいちばん近い巻として置ける。

5. QED 伊勢の曙光(講談社文庫 た 88-31)

伊勢という土地が持つ「清さ」を、そのまま信じさせてくれない巻だ。神職の不審な墜落死から始まり、伊勢へ向かう足取りが、次第に“参拝”ではなく“調査”へ変わっていく。

この巻は旅情がある。ただし、旅情が癒やしにならない。鳥居の向こうが明るいほど、影も濃い。土地が美しいほど、隠したいものも増える。そういう冷えたリアリティがある。

桑原崇の推理は、信仰の領域に踏み込むとき、急に慎重になる。否定しない。肯定もしない。人が「そう思う」ことの強さを、そのまま材料にする。信仰は論理の敵ではなく、論理の対象だという立て方が、伊勢でよく効く。

奈々の視線も、ここでは少し揺れる。畏れの気持ちが混じる。畏れが混じると、人は判断を遅らせる。その遅れが、事件の呼吸になる。

読みどころは、土地の層を一枚ずつめくる手つきだ。地名、由来、習俗。どれも観光パンフレットの顔をしているのに、裏を返すと“人間の都合”がべったり貼り付いている。

シリーズを追ってきた人には、感情の揺れが刺さる巻でもある。関係が変わるというより、見えていなかった温度が浮き出てくる。その変化が、やけに生活っぽい。

電子書籍で続巻をまとめて読みたくなるタイプの厚みがある。

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読み終えて外に出ると、空の色が少し違って見える。曙光という言葉が、希望というより「眠れなかった夜の終わり」に近い光として残る。

清い場所ほど怖い、という感覚が好きなら、この巻はよく合う。

6.QED 九段坂の春

この巻がいいのは、謎解きが派手な花火ではなく、春の光の中でゆっくり輪郭を変える影みたいに進むところだ。九段坂という地名が最初から匂わせるのは、街の記憶だ。人が毎年同じ季節を迎える一方で、場所だけがずっと“過去の層”を抱え続ける。その重さが、事件の底に沈んでいる。

QEDの基本は、知識を披露して勝つのではなく、知識を使って「嘘の形」を炙り出すことだ。この巻では、その作法がとくに静かに働く。誰かが語った過去、誰かが隠した過去、そして語られなかった過去。過去はいつも、都合のいい角度で切り取られる。切り取りの癖が、そのまま推理の糸口になる。

棚旗奈々の立ち位置も、この巻だとよく見える。現場に立ったときの肌感覚と、相手の言葉に揺れる気持ち。理屈の川を渡りながら、足元の冷たさも同時に感じ取っている。だから読者も、理屈だけで突き放されない。

桑原崇の推理は、相変わらず穏やかだ。けれど穏やかさが、むしろ刺さる。大声で断罪しない。代わりに、逃げ道を少しずつ塞いでいく。最後に残るのは、犯人当ての爽快感というより、春の空気の中に混じる金属っぽい後味だ。

この巻は、読み終えたあとに日常へ戻りやすい。だからこそ効く。駅までの道、坂の上り下り、桜の散り方。何気ない景色が、ほんの少しだけ“意味を持ちすぎる”ようになる。そういう変化が、QEDの静かな強さだ。

シリーズに慣れてきた頃に読むと、QEDが「知の遊び」ではなく「記憶の扱い方」の小説でもあるとわかる。読み心地は穏やかで、芯は冷たい。余韻が欲しいときに置いておくと、効き目が長い。

カンナで“重さ”を踏む

7. カンナ 天草の神兵(講談社文庫 た 88-25)

「カンナ」は追う物語だ。秘文書を持って逃げる男を追い、追ううちに日本史の“裏の筋”へ滑り込む。この巻では天草へ向かい、天草四郎の像そのものを揺さぶってくる。

天草という土地は、悲劇が地形に沈んでいる。海風が気持ちよくても、歴史は軽くならない。物語はその重さを、観念ではなく事件の圧として読ませる。

主人公側の運動量が高いのも魅力だ。移動する。聞き込む。追われる。QEDの“机上の証明”の気配を保ちつつ、身体が疲れていく感じがある。疲労があるから、陰謀の匂いが現実味を帯びる。

歴史解釈の大胆さは、このシリーズの持ち味だが、面白いのは「断言の気持ちよさ」より「断言したくなる誘惑」を描く点にある。誰かが断言した瞬間、別の誰かが傷つく。その構図が、事件の下に見えてくる。

天草四郎をめぐる問いは、人物当てではない。像が作られる過程を疑う問いだ。像は、都合のいい部分だけ残る。残った部分が、次の暴力を呼ぶ。そういう循環が、じわじわ出る。

読みながら、潮の匂いと、湿った石の冷たさが来る。観光の明るさの裏に、祈りの必死さがある土地だとわかってくる。

シリーズ未読でも読めるが、QEDの“静けさ”に慣れてから来ると、テンポの違いが楽しい。静から動へ、身体が切り替わる。

読み終えたあと、天草という地名が「遠い出来事」ではなくなる。遠い場所のはずなのに、今の生活のどこかへつながってしまう。

歴史の闇を、事件として嗅ぎたい人に向く。

8. カンナ 京都の霊前(講談社文庫 た 88-34)

終着点は京都になる。土地の層が厚い場所へ、シリーズが吸い寄せられるのは自然だ。この巻は、追ってきたものが追いついてしまう巻であり、追いついた瞬間にしか出ない痛みがある。

京都は「物語が多すぎる街」だ。どの角にも由来がある。由来があるほど、人は隠せる。隠せるほど、罪も育つ。そういう街の性質が、事件の足場になる。

「霊前」という言葉が示すとおり、ここには死者がいる。死者を悼む顔をしながら、生者の都合が進む。悼みが嘘になるのではなく、悼みの中に嘘が混じる。その混ざり方が、妙にリアルだ。

カンナのシリーズは、秘文書をめぐる追跡のスリルで走りつつ、途中から「追うことが正しいのか」という問いが濃くなる。この巻は、その問いを避けない。追ってきた時間が長いほど、答えは単純にできない。

推理の快感より、決着の手触りが残る。決着は、必ずしも救いではない。救いに見せることもできるが、見せない。見せないから、読後に余韻が残る。

京都の湿り気は、雨のせいだけではない。古い木の匂い、石段の冷え、夜の灯り。そういう感覚が、ページの間から滲む。

シリーズを追ってきた人には、感情の整理が必要になるかもしれない。それでも読む価値があるのは、読後に「追う」という行為の意味が、少しだけ変わるからだ。

ここまで来たら、もう一度最初を読み返したくなる。追う側の目が、初期と違って見える。

京都を好きな人ほど、甘い気分で読まないほうがいい。甘さを剥がした先に、面白さがある。

9.カンナ 天満の葬列(講談社文庫 た 88-32)

カンナは、走るシリーズだ。追う、逃げる、辿る。その運動量が、陰謀の匂いを現実にしていく。この巻は、その走りが「葬列」という言葉に吸い寄せられていく。葬列は、死者のための列でありながら、生者が作る秩序でもある。秩序ができる場所には、必ず政治が混じる。

天満と聞いて思い浮かぶのは、学問や祈願、そして“正しさ”だ。正しさは便利で、怖い。正しさがあると、人は疑わなくなる。疑わないことで、守られるものも増えるし、見捨てられるものも増える。この巻は、その両方を事件の手触りとして出してくる。

QEDが机上の証明に寄るなら、カンナは現場の摩擦が多い。移動の疲労、追跡の焦り、言葉が通じない瞬間。そういう身体のきしみが、物語の緊張を保つ。だから陰謀が陰謀のまま浮遊しない。追う側の息が乱れるほど、真相が近い感じがしてしまう。

シリーズの“重さ”というのは、情報量のことだけではない。選んだ行動が戻らない、という感覚の重さだ。この巻では、その戻れなさが濃い。守るために何を壊すのか。正義の顔をした力が、どこまで踏み込むのか。読みながら、胸の奥が乾く。

それでもページをめくらせるのは、歴史の層が、個人の人生へちゃんと触れてくるからだ。陰謀の話で終わらない。個人の損失が出る。損失が出るから、追う意味が問われる。問われるから、読後に残る。

“軽めの一冊”を求めるときには向かない。逆に、シリーズを深く踏みたいとき、あるいは、信仰と政治の匂いが混ざる話を読みたいときには、ここが強い。読後、心は少し疲れる。その疲れが、物語の手応えになる。

神の時空で、京都と三輪を濃く味わう

10.神の時空 京の天命(講談社文庫 た 88-49)

「京」という字が示すのは、中心だ。中心は、静かに見えて、実際はずっと揺れている。権力、伝統、系譜、祈り、観光。どれも“正しい顔”をして並ぶけれど、その並び方自体が、時代ごとに入れ替わってきた。この巻は、その入れ替わりの痛みを、現代の事件へ落とし込む。

神の時空は、霊性を扱うのに、ふわっとさせない。怖いのは霊だけではなく、霊を必要とする人間の側だという視点がある。京の街は物語が多すぎて、どの物語も「もっともらしい」。もっともらしさが増えるほど、嘘も紛れ込める。紛れ込んだ嘘が、事件になる。

この巻は、“因縁”の扱いが巧い。因縁は、説明すると陳腐になる。説明しないとわからない。神の時空は、その綱渡りを、土地の圧で支える。石畳、路地、寺社の影、夜の灯り。景色が、因縁を言語化する前に感じさせてしまう。

読んでいると、京都の明るさが何度も裏返る。昼の観光地が、夜の封印に変わる。笑い声が、祈りの声に変わる。変わるたびに、事件の輪郭も変わる。推理の手触りが、固定されないのが怖い。

シリーズの中でも、京都の“中心の圧”を浴びたい人に向く。オカルトっぽさが苦手でも、怖さが「場所のリアリティ」に寄ってくるので、意外と読める。怖がらせるための霊ではなく、霊が生まれる土壌を描くからだ。

読み終えたあと、京都の地図が少しだけ変わる。路地の曲がり角に、別の時間が溜まっている気がする。そういう読後感が欲しいときに、刺さる一冊だ。

11.神の時空 三輪の山祇(講談社文庫 た 88-43)

三輪は、山そのものが信仰の核になる場所だ。建物よりも、山。人の手よりも、自然。そう言い切れそうでいて、実際には「自然をどう扱うか」という人間の都合が絡み続ける。この巻は、その絡み目のところで事件が立ち上がる。

山祇という語感がすでに、禁忌の匂いを持っている。禁忌は、破るから怖いのではない。禁忌があると、人は“守っているふり”ができてしまう。守っているふりの裏側で、都合のいいことだけ進める。そういうズルさが、土地の厳しさとぶつかったとき、現象が歪む。

神の時空の魅力は、事件が大きくなっても、最後に戻ってくるのが人の感情だという点にある。この巻でも、土地の圧が増えるほど、個人の事情が小さく見えそうになる。けれど実際は逆で、個人の事情が土地の圧に晒されて、むき出しになる。むき出しになるから、怖い。

読みどころは、山の静けさが、ずっと不穏として続くところだ。にぎやかな祭りの熱ではなく、音が吸われる感じ。木の湿り気。足音の軽さ。そういう静けさが、理屈より先に読者を捕まえる。

シリーズの雰囲気を掴む一冊としても強い。霊性と史実、現代の事件と古い禁忌、その折り合いを「落とし所」ではなく「継続する緊張」として描く。緊張が続くから、読後に簡単な解放感が来ない。その代わり、しぶとい余韻が残る。

怖さが好きな人にも、土地の話が好きな人にも向く。ページを閉じたあと、山を見る目が少し変わる。山は背景ではなく、こちらを見返してくるものだ、という感じが残る。

 

12. 神の時空 鎌倉の地龍

「神の時空」は、霊性と事件が同じ地面を踏むシリーズだ。この開幕巻は、鎌倉で意識不明となった女子高生が消え、地震や倒壊が連鎖する。現象が大きく、なのに始まりはとても個人的で、その落差が怖い。

鎌倉という街は、歩けば寺社に当たる。潮の匂いがして、日常の散歩道にも見える。けれど歴史の層が薄いわけではない。その「日常と層の同居」が、シリーズの土台と相性がいい。

この巻の魅力は、現象の説明が“怪異だから”で止まらないところだ。怪異めいたものが現れるほど、誰かの意図が透ける。意図が透けるほど、怪異の輪郭が濃くなる。論理と霊性が、互いを補強し合う。

登場人物たちの関係には、家系や血の匂いが混じる。好き嫌いで切れない縁が、事件に絡む。縁があるから、逃げられない。逃げられないから、踏み込む。踏み込んだ先で、時空が歪む。

読みながら、足元が少し揺れる。地震の描写があるからではなく、土地の“安定しているはず”という感覚が崩れていくからだ。鎌倉の石段が、いつもより急に見えてくる。

シリーズ未読なら、この巻は入口として強い。QEDが「証明」なら、こちらは「封印」だ。封印を破るには、証明とは別の覚悟が要る。その覚悟が、最初から提示される。

怖さは派手ではない。むしろ静かだ。静かなのに、神社の境内を夜に歩くときのように、背中が落ち着かない。

読み終えると、鎌倉の地図が少し変わる。観光の道が、封印の線に見えてしまう。

歴史だけでなく、霊の匂いが好きな人に刺さる。

13. 神の時空 伏見稲荷の轟雷

千本鳥居に吊るされた遺体という、強烈な絵から始まる。伏見稲荷という“親しまれている場所”が、一瞬で異界の入口になる。その変換が速く、サスペンスとしても読める巻だ。

稲荷は、身近すぎる神でもある。小さな祠から大社まで、日常の延長にある。延長にあるものほど、人は油断する。この巻は、その油断を事件で折る。

鳥居が続く景色は、昼に見るときと夜に見るときで意味が変わる。昼は観光の流れ、夜は“数えたくない数”。ページをめくるほど、千という数が怖くなる。数が多いのは、信仰が厚いからだ。その厚さが、事件の圧になる。

シリーズが進んだぶん、登場人物たちは「異変」を経験している。経験しているからこそ、異変に慣れかける。慣れかけたところへ雷が落ちる。慣れは危険だと、物語が冷たく教える。

この巻の良さは、テンポを崩さずに信仰の怖さへ踏み込むところだ。稲荷を“かわいい狐”で終わらせない。かわいさの裏にある、距離の近さの怖さを描く。

読みながら、雨上がりの石畳を想像する。湿った匂い、足音が吸われる感じ。観光客の声が消えたあとにだけ聞こえる音がある。

事件は派手だが、読後に残るのは「身近なものほど怖い」という静かな感覚だ。家の近所の祠が、少しだけ違って見える。

耳で入りたい人には、音で運ぶ物語としても相性がいい。

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シリーズの中盤以降を味わいたい人、サスペンス寄りの一冊が欲しい人に向く。

 

古事記異聞を“厚み”で読む

14.古事記異聞 鬼統べる国、大和出雲

古事記異聞の面白さは、神話を“知っている物語”のままにさせないところだ。出雲と大和という言葉が並ぶだけで、中心と周縁の力学が立ち上がる。中心が物語を作り、周縁が別の物語を抱える。その衝突の熱が、ミステリーの燃料になる。

この巻は、神話の読み替えを「意見」ではなく「事件」として前に出す。読み替えは、誰かの利益になる。利益になるなら、奪い合いになる。奪い合いになるなら、死が出る。そういう現代的な因果が、神話の領域へ通じてしまう怖さがある。

ノベルス版の良さは、物語の密度を落とさずに、厚みで押してくるところだ。ページ数が増えると、設定や知識が増えるだけに見えるが、実際は“疑う時間”が増える。疑う時間が増えると、読者の中で神話が揺れ続ける。その揺れが、このシリーズの快感になる。

読みどころは、出雲と大和を単純な善悪にしない点だ。中心が悪い、周縁が正しい、という話にはしない。どちらも生き延びるために物語を作る。物語を作るために、黙らせる。黙らせるために、正しさを用意する。その仕組みが、冷たく見える。

神話に詳しい人は、細部よりも“力の向き”に注目すると刺さる。詳しくない人は、むしろ先入観がないぶん、読み替えの怖さがまっすぐ入る。知っているはずの物語が、知らない顔をし始める感覚がある。

読後に残るのは、爽快感というより、地面の硬さだ。物語は、地面だ。地面が傾くと、人は立ち方を変える。その立ち方の変化まで含めて、面白い。

 

15. 鬼棲む国、出雲 古事記異聞

神話を“やさしい昔話”のまま置かないシリーズが「古事記異聞」だ。舞台は出雲。民俗学の研究室にいる橘樹雅が現地へ赴き、出雲神話そのものに疑問を抱いていく。事件は、その疑問を現実へ引きずり出す形で起きる。

この巻の読み味は、推理小説というより「読み替え」の興奮に近い。教科書的な理解が、足元から少しずつ崩れる。崩れていくのに、妙に納得してしまう。納得は危険だが、面白い。

出雲は縁結びのイメージが強い。けれど縁が強い土地は、切れる縁も強い。結び目の固さは、ほどくときに痛い。この巻は、その痛さを隠さない。神話の美しさの裏に、敗れた側の歴史が見える。見えた瞬間、神話が急に怖くなる。

橘樹雅の旅は、観光の旅ではない。調べる旅であり、傷ついた心を抱えた旅でもある。だから風景がただの背景にならない。鳥居や社殿が、問いの相手として立ち上がる。

高田崇史の強みは、神話を否定して気持ちよくなる方向へ行かないところだ。神話は人が必要として生まれた。その必要が、誰かを救い、誰かを押しつぶす。両方を同じ重さで扱う。

読みながら、森の匂いが濃くなる。木の湿り気、空の低さ。都市の事件とは違う呼吸で、ページが進む。

ミステリーの「犯人」を求める気分だけだと、少し戸惑うかもしれない。代わりに「物語を作ったのは誰か」という問いで読むと、深く刺さる。

読み終えたあと、古事記のあらすじを知っているだけでは足りなくなる。知っているはずの話が、知らない話に変わってしまう。

神話が好きな人にも、神話が苦手な人にも効く。好きな人は揺さぶられ、苦手な人は“考える入口”ができる。

関連グッズ・サービス

本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。

シリーズものは、続けて読むほど「土地の層」が身体に入る。移動中や寝る前に少しずつ積むだけで、推理の勘も戻ってくる。

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耳で追うと、薀蓄の密度が“会話の速度”として入ってくる。鳥居や石段の情景が、音から立ち上がる夜がある。

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もうひとつは、御朱印帳や旅のメモ帳のような「残す道具」だ。作中の地名や由来を書き留めるだけで、次にその土地へ行くとき、景色が一段深くなる。

まとめ

高田崇史は、事件を解くたびに「世界の見え方」を少しだけ変える。百人一首の札、絵巻、河童伝説、伊勢の空気、天草の海風、鎌倉の石段、伏見稲荷の鳥居、出雲の森。どれも読み終えたあと、ただの観光情報ではなくなる。

  • まずは型を掴みたい:QED(百人一首/六歌仙)
  • 歴史の重さを味わいたい:QED(東照宮/伊勢)
  • 土地の暗部を嗅ぎたい:カンナ(天草/京都)
  • 霊性と事件の衝突を読みたい:神の時空(鎌倉/伏見稲荷)
  • 神話を読み替えたい:古事記異聞(出雲)

読み終えたら、次の一冊は「同じ土地」か「同じ問い」から選ぶといい。高田崇史の物語は、つながり方まで含めて面白い。

FAQ

Q1. 高田崇史はどこから読むのがいちばん迷わない?

迷いにくいのは「QED 百人一首の呪」だ。探偵役の桑原崇と棚旗奈々の型が素直で、知識の出し方も事件のテンポも掴みやすい。合えば、そのまま「六歌仙」「東照宮」へ伸ばすと、知のスケールが段階的に上がる。

Q2. 歴史や古典に詳しくないと楽しめない?

詳しさは必須ではない。必要なのは「知らないものが出てきても、事件として追う」姿勢だけだ。むしろ知らないほうが、不気味さや意外性が強く働く。気になった固有名詞を一つだけ調べる、くらいの軽さで十分に面白い。

Q3. 怖いのが苦手だけど読める?

怖さの種類が巻で違う。血の匂いが近いのは「河童伝説」、怪異の気配が濃いのは「神の時空」、じわじわ来る怖さは「古事記異聞」だ。怖さが不安なら、まずはQEDの「六歌仙」や「伊勢」から入ると、論理の快感が支えになって読みやすい。

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