- 吉川英治とは
- まずは大河で「長く暮らす」合本版(7冊)
- 日本史の節目をつかむ人物と事件(12冊)
- 剣戟・捕物・世相の活劇(7冊)
- 短編集・随筆で「作家の頭の中」を覗く(5冊)
- 紙で揃えたい人向け(参考:完結セット)
- 読み方のコツ(迷ったら)
- FAQ
- まとめ
- 関連リンク
吉川英治とは
吉川英治(1892-1962)は、歴史の骨格を押さえつつ、人物を「息をする存在」にして読ませ切る大衆小説の達人だ。『新・平家物語』で第1回菊池寛賞を受賞し、1960年に文化勲章を受章した。
吉川英治の強みは、史実の出来事を「人間の選択」に置き換えるところにある。合戦や政争の説明に流れず、迷い、意地、恩義、恐れ、信念がぶつかる瞬間へ運んでいく。読み口は平明なのに、読み終えると人物観が少し変わる。
もう一つは、勝者だけを輝かせない視線だ。敗者や周縁、名の残らない者の手触りまで拾う。だから「英雄の物語」なのに、読後に残るのは武勇よりも、人生の耐え方や立て直し方だったりする。
まずは大河で「長く暮らす」合本版(7冊)
1.宮本武蔵全八冊合本版(Kindle版)
この『武蔵』の芯は、剣が強くなる過程というより、負け方と恥の抱え方が変わっていく過程にある。若さの乱暴さがそのまま世界への不信になり、そこから一歩ずつ、相手の強さや痛みを「理解して受け止める」方向へ転がっていく。吉川英治は、修行の成果を悟りの言葉で済ませない。村に宿る空気、師や友の沈黙、恋の不器用さが、武蔵の姿勢を少しずつ矯正していく。
読みどころは、勝った直後より、勝ったのに心が荒れる場面だ。強さが心を救わない瞬間が積み上がり、だからこそ終盤の静けさが効いてくる。長いのに飽きにくいのは、武蔵の敵が「他人」から「自分の中の癖」へ移っていくから。
向く人:長編で人生の手触りをじっくり受けたい人。努力が空回りしている時期に、フォームを作り直したい人。
2.三国志全八冊合本版(Kindle版)
吉川版『三国志』は、戦術の講義ではなく、人間が集まってはほどける「熱の循環」で読ませる。劉備の義は綺麗事に見えそうで、実際は腹のくくり方として描かれる。曹操は冷酷な悪役ではなく、秩序のために感情を切り落とす人物として迫ってくる。諸葛亮の知は万能ではなく、理想を現場に落とすたびに摩耗していく。
面白いのは、勝ち筋が見えている局面より、陣営が大きくなったせいで意思疎通が壊れる局面だ。信頼の管理、部下の嫉妬、功名争い、情報の遅れが、戦以上に結果を左右する。英雄譚なのに、会議と配置の連続として読めるのは吉川英治の筆の強さ。
向く人:人物相関とドラマの密度を浴びたい人。組織の成功と崩壊を、感情の粒で読みたい人。
3.私本太平記全八冊合本版(Kindle版)
南北朝は、正統が一枚に決まらない。だからこの物語は、正義よりも「生き延びるための言い分」がぶつかり合う。足利尊氏は英雄にも裏切り者にも見えるが、吉川英治はそこを割り切らない。迷いがあるからこそ人が集まり、迷いがあるからこそ裏切りが連鎖する。理想で人を動かす者、現実で人を動かす者、怨念で動く者が同じ盤面に立つ。
読みどころは、旗色が変わる瞬間の心理だ。昨日の味方が今日の敵になるとき、論理より先に「体面」「恐れ」「恩義」が動く。その生臭さが、時代の輪郭をはっきりさせる。終始重いのに読ませ切るのは、戦乱が常に「生活」に降りてくるから。
向く人:歴史を善悪で整理したくない人。権力の揺れが人間の品位を試す場面を読みたい人。
4.新・平家物語全十六冊合本版(Kindle版)
『新・平家物語』は、栄華と没落を「因果」で片づけない。平家の華やかさは、都の洗練だけでなく、外の世界を押さえ込む力としても描かれる。だから滅びは美しいだけではなく、取り返しのつかない乱暴さを伴う。清盛の強さは、家の繁栄への執念として魅力的だが、その執念が周囲の呼吸を奪う瞬間がある。
読みどころは、武将たちの意地より、家族の中の温度差だ。親子、夫婦、兄弟が同じ旗の下にいても、見ている未来が違う。そのズレが戦の前にすでに敗北を運び込む。源氏側も聖人ではなく、勝つほど荒れていく。勝者の正義が綺麗に見えないところが、この長編の怖さであり強さ。
向く人:源平を「合戦の年表」ではなく「人間の共同体の崩れ」として読みたい人。長い物語で時代の匂いに浸りたい人。
5.新書太閤記全十一冊合本版(Kindle版)
秀吉は、天才の成功譚として読むと薄くなる。吉川英治は、秀吉の武器を「人の心の癖を見抜く勘」として描く。上に取り入る器用さではなく、場の温度を読んで言葉を差し出す技術。汚れ仕事も笑いに変えてしまう厚かましさ。その一方で、笑いで隠した飢えと劣等感が、出世の階段を押し上げる。
読みどころは、秀吉が“勝ち方”を覚える場面より、“負けない空気”を作る場面だ。戦よりも根回し、恩の配り方、恐れの使い方が前に出る。だから現代の仕事小説のようにも読める。後半に進むほど、出世の眩しさと孤独が同時に濃くなり、軽快さが渋みに変わっていく。
向く人:戦国を「武勇」より「人心の運用」で読みたい人。成り上がりの快楽と、その代償の両方を味わいたい人。
6.親鸞全三冊合本版(Kindle版)
これは悟りの物語というより、救われにくい人間が、それでも救いを手放さない物語だ。清潔な精神論に逃げず、欲や弱さ、世間の視線がまとわりつく中で、親鸞が自分の立つ場所を決めていく。吉川英治は信仰を飾りにしない。食うこと、暮らすこと、愛すること、恥じることの全部が信仰の足元に置かれている。
読みどころは、正しさが人を傷つける瞬間に目を逸らさないところだ。寺の権威、教えの差、身分の差が、善意の顔で人を追い詰める。親鸞が見つけるのは、相手を裁く力ではなく、裁けない自分を抱えて生きる態度だ。静かな場面ほど濃い。
向く人:心が疲れているときに、強い言葉ではなく「折れない姿勢」を受け取りたい人。歴史の中で信仰が生活に刺さる瞬間を読みたい人。
7.新・水滸伝全四冊合本版(Kindle版)
梁山泊の痛快さはもちろんある。ただ吉川英治は、豪傑たちを「気持ちのいい正義」で固めない。集まる理由がそれぞれ違うから、同じ旗の下でも衝突が起きる。義のために剣を抜く者、私怨を義に言い換える者、居場所を求めて義に寄りかかる者が混ざる。その混ざり方が、生々しく面白い。
読みどころは、組織が大きくなるほど理想が汚れていく感覚だ。勝つための手段が増え、敵の残酷さを写し取ってしまう。活劇として走りながら、後味に泥が残る。その泥があるから、義が単なる旗印ではなく「選び直し続けるもの」になる。
向く人:熱い群像活劇が好きな人。正義の物語を、綺麗事で終わらせたくない人。
日本史の節目をつかむ人物と事件(12冊)
8.平の将門(Kindle版)
将門は、反逆者として語られると一瞬で単純化される。吉川英治は、将門を「中央に踏まれる地方」の怒りと誇りの塊として描く。都の作法が正義として降ってくるとき、土地の掟と生活が破壊される。その理不尽が、将門を過激にするのではなく、まっすぐにする。まっすぐだからこそ危うい。
読みどころは、将門が激情に走る場面より、激情を抑え込もうとして失敗する場面だ。自分が壊れ始めているのを分かっていながら、止まれない。武勇ではなく、逃げ場のなさが物語を推進する。最後まで読んだあと、反乱という言葉の手触りが変わる。
向く人:中央史観の外側から日本史を見たい人。地方の誇りと屈辱がどう爆発するかに関心がある人。
9.源頼朝(一)(Kindle版)
頼朝を「源氏の英雄」として立てるより、疑い深く、怖がりで、だからこそ制度へ向かう政治家として描くのが吉川英治の巧さだ。戦場の勝敗だけで天下を握れないと悟り、味方の束ね方、恩賞の配り方、恐れの管理に神経を尖らせる。勝つほどに安心できず、勝つほどに孤独が増える。
読みどころは、頼朝が感情を見せない場面の裏側だ。言葉を飲み込むほど、相手は不安になり、噂が増殖する。沈黙が武器であり毒になる。源平の大河に入る前の“頼朝の脳内”として読むと、鎌倉政権が急に現実味を帯びる。
向く人:源平を「政」と「人脈」で読みたい人。勝者がどう秩序を作るか、その手触りが欲しい人。
10.源頼朝(二)(Kindle版)
権力を握った後の頼朝は、より慎重で、より残酷に見える。だがそれは、好みの残酷さではなく、秩序を保つための切断だ。味方が増えるほど、内輪の争いが増え、功名が政治を濁す。頼朝はその濁りを嫌い、嫌うほど人を遠ざける。
読みどころは、統治が「戦の延長」ではなく「身内の処理」になっていくところだ。敵を倒すより、味方の暴走を止めるほうが難しい。勝利が祝祭ではなく、後始末になる。この渋さが、鎌倉という体制の冷えた輪郭を作る。
向く人:革命の後の統治を読みたい人。勝った側の倫理と恐怖に興味がある人。
11.上杉謙信(Kindle版)
義将としての謙信は、格好よく書けば書くほど嘘になる。吉川英治は、謙信の義を“美しい看板”ではなく“譲れない癖”として描く。譲れないからこそ、周囲は救われもするし、疲れもする。戦が強いのに国が安定しきらないのは、義が人間関係を硬直させるからだ。
読みどころは、謙信が怒る場面より、怒りを正当化してしまう場面だ。義の言葉で自分を固めるほど、他人の事情が見えにくくなる。それでも謙信の孤独は美しい。その美しさが、戦国の残酷さを照らす。
向く人:武将の理想と現実のズレを、人格の問題として読みたい人。一本気な人物の強さと脆さが好きな人。
12.黒田如水(文庫)
如水の魅力は、計略の華麗さより「感情を切り離せない頭脳」にある。主家に尽くす顔をしながら、内側では常に次の一手を組み立てている。その二重性は裏切りの臭いもするが、吉川英治はそこを悪にしない。乱世で生き残るための現実の知恵として、そしてその知恵が心を乾かしていく過程として描く。
読みどころは、如水が勝つ場面より、勝つために“人を道具にする自分”を自覚する場面だ。参謀の冷静さが、同時に孤独の理由になる。戦国を軍師目線で読みたい人には、視界が一段クリアになる。
向く人:軍師ものが好きで、策略の裏側の感情まで欲しい人。勝ち筋を作る仕事の苦さに興味がある人。
13.大岡越前(Kindle版)
奉行裁きの爽快感ではなく、裁く側が背負う重みを中心に置くのが吉川英治の大岡ものだ。若い越前守は、正義の言葉を持つ前に、世間の泥と自分の未熟さを先に掴まされる。正しい裁きが常に人を救うわけではない。救うための裁きが、別の誰かを潰すこともある。
読みどころは、結論より過程だ。証言の揺れ、噂の増殖、当事者の体面が、真実を見えなくする。その中で越前守は、完全な正解を諦めず、同時に完全な正解がないことも受け入れていく。江戸の人情が甘さではなく、現実の調整として描かれるのが渋い。
向く人:奉行ものを“勧善懲悪”で終わらせたくない人。責任を引き受ける人物の成長を読みたい人。
14.梅里先生行状記(Kindle版)
水戸光圀(梅里先生)を、道徳の象徴にせず、現場に手を突っ込む権力者として描く。正しさを掲げれば人は従う、という単純な話ではない。正しさを通すには、時に荒っぽい手当ても必要になる。その手当てが誰を傷つけ、誰を救うのかまで描くから、読後に残るのは説教ではなく苦い納得だ。
読みどころは、理想が汚れる場面だ。改革の言葉が、現場では締め付けにもなる。光圀はそれを分かりながら、止めきれずに進む。政治の「汚れ」を見せるのに、人物が嫌にならないのは筆力。
向く人:改革の物語を、血の通う政治として読みたい人。理想と統治の摩擦を見たい人。
15.江戸三国志(一)(Kindle版)
江戸の街は、武家の法だけでは動かない。侠客、商い、裏稼業、役人の思惑が絡んで、毎日が小さな政局になる。吉川英治はそれを、義理人情の美談ではなく、利害が人情の顔をする世界として描く。だから台詞が粋でも、土の匂いが消えない。
読みどころは、誰が味方か分からない緊張だ。筋を通す者ほど損をし、損をしても筋を捨てない者が一番怖い。江戸の生活の裏表を、活劇のスピードで見せてくる。
向く人:江戸の街の政治が好きな人。池波とは別の熱量で、侠客の世界を浴びたい人。
16.江戸三国志(二)(Kindle版)
輪が広がるほど、仁義は試される。仲間が増えると、誰かの面子が潰れ、誰かの腹が黒くなる。吉川英治は、そのひび割れを「裏切りの事件」としてではなく「人間の自然なズレ」として描く。啖呵が立つほど、心は荒れている。
読みどころは、勢力図が見えてきた段階での“疑いの連鎖”だ。正義を掲げるほど、相手も正義を掲げる。どちらも間違っていないから、手が汚れる。江戸の哀しさが、派手な場面の裏でじわじわ増す。
向く人:群像の推進力が好きな人。活劇の中に、関係が壊れる痛みも欲しい人。
17.江戸三国志(三)(Kindle版)
決着は勝利の祝祭ではなく、傷の回収として来る。江戸という巨大な街が、人の噂と欲望を増幅し、その増幅が個人をすり減らす。最後まで読ませるのは、敵を倒すための工夫より、倒した後に残る“空白”が大きいからだ。
読みどころは、派手な山場の後の静けさだ。帳尻を合わせるように人生が片づいていく、その冷えがある。粋な言葉の背後に、失われたものが積もって見える。
向く人:活劇の終盤に片づけの味が欲しい人。江戸の華やかさの裏の寂しさを読みたい人。
18.新編忠臣蔵(一)(Kindle版)
忠臣蔵を美談として知っているほど、最初の崩れ方が刺さる。刃傷は事件である以前に、生活の地震だ。禄を失う、家族が揺れる、親類が手のひらを返す。吉川英治は、討入りのロマンに行く前に「明日どうする」の現実を徹底して積む。
読みどころは、家中の温度差だ。義を貫く者、現実に折れる者、沈黙で耐える者が同じ場所にいて、同じ結論に辿り着けない。忠義が綺麗な言葉ではなく、衣食住に直結する選択になる。
向く人:忠臣蔵を組織崩壊劇として読みたい人。討入り前夜の苦さをきちんと味わいたい人。
19.新編忠臣蔵(二)(Kindle版)
討入りに向かう熱が上がるほど、逃げ道が消えていく閉塞も濃くなる。大石内蔵助は英雄の仮面を被るが、その仮面は他人のためであり、自分を守るためでもある。吉川英治は、作戦の巧さより「心を凍らせる技術」を描く。動揺を見せれば仲間が崩れる。だから笑う、遊ぶ、ふらつく。その演技が本物に変わっていく。
読みどころは、決行の瞬間より、決行までの消耗だ。正義のために命を捨てるという単純さに寄らず、捨てるしかない状況を作り上げる心理の連鎖が怖い。結末を知っていても、胸がざわつく。
向く人:物語のクライマックスより、そこへ追い込まれる過程が好きな人。忠義の影を読みたい人。
剣戟・捕物・世相の活劇(7冊)
20.神州天馬侠(一)(Kindle版)
講談の勢いが、そのまま文章のエンジンになっている。理屈より先に、追う、逃げる、名乗る、斬る、助けるが連続して、読者の呼吸を奪う。だが雑ではない。人物の癖が立っているから、派手な場面が続いても誰が何を欲しているかが見失われにくい。
読みどころは、“正義が加速する快感”だ。現代的なリアリズムとは別腹で、まっすぐな勧善懲悪のテンポを浴びると、長編大河の渋さとは違う元気が戻る。
向く人:重い大河の合間に、少年心のエンジンを回したい人。娯楽小説の王道の火力が欲しい人。
21.神州天馬侠(二)(Kindle版)
敵味方の配置が増え、舞台が広がるぶん、物語はさらに派手になる。だが派手になるほど、信じることの危うさも混ざってくる。味方だと思った瞬間に裏が見え、裏を見た瞬間に別の義が現れる。その揺れが、単純な冒険活劇を一段面白くする。
読みどころは、スピードの中の“疑い”だ。疑いが入ると、正義は簡単には勝てなくなる。そこでどう踏ん張るかが、この巻の気持ちよさ。
向く人:連続活劇の加速感が好きな人。痛快さの中に小さな陰影も欲しい人。
22.神州天馬侠(三)(Kindle版)
決着は痛快だが、痛快さの裏に寂しさが出る。物語が大きくなった分だけ、取り戻せないものが増え、勝利が純粋な祝祭になりにくい。吉川英治は、最後まで勢いを落とさずに走り切りながら、余韻だけは軽くしない。
読みどころは、勝って終わりではなく、勝った後に残る“形”だ。冒険の火花が消えたあと、人物がどう立つかが見える。
向く人:娯楽小説の王道を通しで味わいたい人。勢いだけでなく、終わり方の味も欲しい人。
23.牢獄の花嫁(Kindle版)
捕物帳に寄った作品で、謎解きの技巧より、人が追い詰められていく圧が強い。牢獄という閉じた場所は、悪人を閉じ込める装置であると同時に、弱い者を沈める装置にもなる。吉川英治はそこを甘くしない。正義の執行が正義の顔のまま、人を壊す場面がある。
読みどころは、事件の真相より、周囲の“世間”だ。噂、体面、金、身分が、人の口を塞ぎ、行動を曲げる。江戸の暗部を短いテンポで叩き込む。
向く人:時代の暗さを避けずに読む捕物が好きな人。後味が甘くない江戸ものが読みたい人。
24.松のや露八(Kindle版)
武士の家に生まれた男が、明治の世で太鼓持ちとして生き直す。落差が滑稽で、その滑稽さが痛い。身分が崩れ、価値が入れ替わり、「立派」が役に立たなくなる時代の風が吹く。露八は賢いわけでも強いわけでもないが、恥を引き受ける覚悟がある。
読みどころは、強がりの裏の弱さだ。軽口の奥に、置いていかれた者の寂しさが見える。時代の転換期を、英雄ではなく“生活者”の目で読む面白さがある。
向く人:転換期の人間の小ささと意地が好きな人。明治ものを、説教ではなく体温で読みたい人。
25.剣難女難(Kindle版)
剣と恋と災難が、綺麗に並ばずに絡み合う。その絡み合い方が面白い。強い者が勝つのではなく、運の悪い者がさらに悪い運に追い込まれ、そこでどう踏ん張るかが物語になる。格好よさを盛るより、格好が崩れた瞬間の人間臭さを掴む。
読みどころは、波乱のテンポだ。道徳の整理より先に、情が走る。その情が裏目に出ても、人物を見捨てない筆がある。
向く人:硬派一辺倒より、艶と波乱がほしい人。転げ落ちる面白さのある時代活劇が読みたい人。
26.かんかん虫は唄う
港の自由労働者“かんかん虫”の世界は、きれいな努力話の外側にある。働いても報われず、口を開けば舐められる。そこで少年の反骨が燃えるが、その反骨もまた誰かを傷つける。吉川英治は、拳を上げる理由を美化しない。だが折れない芯だけは、最後まで光らせる。
読みどころは、正義の言葉ではなく、生活の音だ。汗、金、腹、面子が先に来るから、情が生々しい。任侠の気風が好きな人には、湿った熱が刺さる。
向く人:任侠の匂いがある人間ドラマが好きな人。貧しさと矜持の物語を読みたい人。
短編集・随筆で「作家の頭の中」を覗く(5冊)
27.治郎吉格子 名作短編集(一)(Kindle版)
短いのに、人物が立ち上がる速度が異様に速い。江戸の匂い、悪党の色気、世間の薄情が、最小限の線で刻まれる。長編の吉川英治は大河の流れだが、短編は刃物の切れ味で来る。だから一話読み終えた瞬間に、場面の空気だけが残る。
読みどころは、説明しない残酷さだ。事情を語らず、行動で見せる。善人も悪人も、言い分があるようで、最後は力関係に押しつぶされる。江戸が“粋”だけではないことがよく分かる。
向く人:長編に入る前に筆の切れを確かめたい人。短くても濃い余韻が欲しい人。
28.柳生月影抄 名作短編集(二)(Kindle版)
剣の話、政治の話、人の恨みの話が混じり、素材はバラバラなのに、どれも最後は「人の芯」に落ちる。柳生の気配が渋く、剣豪の格好よさを描くというより、剣の周辺に溜まる闇を掬う。短いぶん、心理のねじれが濃く出る。
読みどころは、勝敗より、勝った側の後味だ。相手を斬った瞬間に終わらず、斬った後の世界が冷える。その冷えが、短編の余韻になる。
向く人:短編で濃い渋みが欲しい人。剣豪ものの陰影を味わいたい人。
29.随筆宮本武蔵 随筆私本太平記(Kindle版)
大ヒット作が史実と混同されていく怖さ、史料の読み方、創作の判断が、きれいごと抜きで出てくる。小説は現実を写すものではなく、現実から“芯”を抜き出して形にするものだという自負がある。その自負が、傲慢ではなく職人の責任として書かれている。
読みどころは、作者の迷いが隠されていないところだ。どこで脚色し、どこで抑えるか。読者の熱に流されず、作品を神話にしないためのブレーキが見える。小説を読む目が一段変わる。
向く人:作品の裏側(調べ・迷い・判断)まで含めて味わいたい人。吉川英治を「書き手」として知りたい人。
30.随筆 新平家(Kindle版)
『新・平家物語』の周辺にある史実の手触りや、旅先の空気、人物の掴み方が出てくる。物語本編が“骨と血”だとすると、この随筆は“匂い”に近い。どの景色に引っかかり、どの言葉に火がついて、あの長編が動き出したのかが分かる。
読みどころは、作家の視線の置き方だ。史跡や古典への敬意がありつつ、そこに縛られていない。史実に寄りかかるのではなく、史実を踏み台にして人間を書きに行く気配が濃い。
向く人:『新・平家物語』を読み終えた後、世界をもう一段立体にしたい人。創作の火種に興味がある人。
31.忘れ残りの記(Kindle版)
自伝的な文章で、貧しさ、働くこと、世間の冷たさが露骨に出る。英雄を描く筆が、生活の底でも同じ熱量で動いているのが分かる。美談に整えないぶん、作家の骨が見える。文学者の繊細さというより、職人としての執念が前に出る。
読みどころは、成功譚ではないところだ。うまくいかなかった日々、屈辱、腹の底の怒りが、後年の歴史小説の推進力になっているのが見える。長編の主人公たちの「踏ん張り」が、作者の生活から来ていたことが腑に落ちる。
向く人:吉川英治の根っこ(労働・屈辱・執念)から読みたい人。人生が荒れている時期に、立て直しの体温が欲しい人。
紙で揃えたい人向け(参考:完結セット)
三国志 文庫 全8巻 完結セット(文庫セット)
合本で一気読みもいいが、紙で分冊にすると「戻る場所」が作れる。人物が多い物語ほど、巻を跨いで再読しやすいのは強い。棚に並ぶ背表紙が、そのまま世界の地図になる。読み終えても手放しにくいタイプのセットだ。
向く人:一気読みより、棚に置いて少しずつ戻りたい人。長編を生活の中に置きたい人。
読み方のコツ(迷ったら)
一作で吉川英治の体温を掴むなら『宮本武蔵』。日本史の大きな流れを浴びたいなら『新・平家物語』か『私本太平記』。出世と戦国の実務なら『新書太閤記』。群像の快楽なら『三国志』。重い長編の合間に短編で切れ味を入れるなら名作短編集(①②)がちょうどいい。
FAQ
まず1冊だけならどれがいい
物語の熱量で選ぶなら『宮本武蔵』、人物の多面体を浴びるなら『三国志』、時代のうねりに浸るなら『新・平家物語』が外しにくい。
合本版は長すぎないか
長い。ただ、巻ごとの区切りが明確なので「今日はここまで」を作りやすい。紙で分冊にするか、電子で合本にするかは、読む場所と荷物の都合で決めていい。
吉川英治は古い文体で読みにくい
語り口は古風だが、文章自体は平明で推進力が強い。読み始めの数十ページを越えると、会話と行動で運ばれていく感覚になる。
歴史の知識がなくても大丈夫か
大丈夫だ。むしろ知識が薄いほど、人物の選択として入ってくる。気になった固有名詞だけ後で調べるくらいで十分回る。
暗くなる作品はある
『私本太平記』『平の将門』は、時代の歪みが濃く出るぶん重さがある。軽快にいきたいなら『鳴門秘帖』のような活劇から入ると読み心地が整う。
まとめ
吉川英治は、歴史を「出来事」ではなく「人間の選択」として読ませる作家だ。まずは『宮本武蔵』『三国志』『新・平家物語』のどれかで熱量を掴み、好みが見えたら『私本太平記』のような重層長編や、『鳴門秘帖』のような活劇へ広げると外れにくい。
































