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【野坂昭如おすすめ本20選】『火垂るの墓』から戦争童話・終末思想まで読む

野坂昭如を読むなら、まずは『アメリカひじき・火垂るの墓』で戦争と飢えの原点に触れ、その後に『エロ事師たち』『骨餓身峠死人葛』へ進むと、作家の幅が見えやすい。きれいな反戦でも、懐古の昭和でもない。腹が鳴る、性がうずく、見栄を張る、嘘をつく。そんな人間の低いところから、野坂は戦後日本を照らしている。

この記事では、代表作、長篇、エッセイ、戦争童話、晩年の日記、周辺から野坂を深める本まで、20冊を読む順が見えるように並べた。重い本も多いが、どれも「生き延びること」の苦さを別々の角度から教えてくれる。

 

 

読む目的別の入り口

野坂昭如は入口を間違えると、濃さに押し返される作家でもある。最初から全部をわかろうとせず、自分がいま知りたい温度に近い本から入るといい。

野坂昭如とは。焼跡、歌、エロス、戦争童話が同じ根から出る

野坂昭如は1930年生まれ。神戸大空襲で養父を失い、妹とともに飢えの中をさまよった少年時代が、作品の奥にずっと残り続けた。『火垂るの墓』だけを読むと、野坂は「戦争の悲劇を書いた作家」として受け取られやすい。けれど実際には、その悲劇はいつも、食べ物、性、金、商売、歌、酒、テレビ、文壇の噂と同じ地面に置かれている。

そこが野坂の厄介で面白いところだ。戦争を語るときにも、自分を清らかな被害者としては置かない。飢えていた子ども時代の恥、妹を守れなかった記憶、生き残ってしまった者の後ろめたさ。そうしたものが、のちの饒舌でふてぶてしい語りの底で、ずっと小さな音を立てている。

戦後の野坂は、放送作家、作詞家、歌手、小説家、タレント、政治家として、ひとつの肩書きに収まらなかった。「おもちゃのチャチャチャ」のような童謡にも関わり、「黒の舟唄」や「マリリン・モンロー・ノー・リターン」のような歌にも関わる。子どもの歌と大人の欲望の歌が、同じ人物の中に同居している。その振れ幅を知ると、戦争童話のやさしい語り口にも、どこか油断ならない影が見えてくる。

小説家としては、『アメリカひじき』『火垂るの墓』で直木賞を受賞し、焼跡闇市派と呼ばれる作家の一人として読まれてきた。だが、代表作だけで終わらせるにはもったいない。『エロ事師たち』には戦後の性産業と庶民のしたたかさがあり、『骨餓身峠死人葛』には炭坑、近親、死体を養分に咲く花のような土俗的な恐ろしさがある。『同心円』や『文壇』に進むと、作家自身が自分の一生を食い破るように書き直していることもわかる。

いま野坂を読む意味は、戦争を学ぶためだけではない。人はどこまで弱く、どこまで下品で、どこまで身勝手で、それでもなお生き延びるのか。その問いを、野坂は笑いながら、怒りながら、歌いながら、何度もこちらへ投げ返してくる。

野坂昭如おすすめ本20選

1. 『アメリカひじき・火垂るの墓』(直木賞受賞・戦争と飢えの原点)

野坂昭如を一冊だけ読むなら、やはりここから始めるのがいい。『アメリカひじき』と『火垂るの墓』は、戦争の悲惨さを遠くから眺める作品ではない。腹が減る。恥をかく。見栄を張る。助けてほしいのに助けてと言えない。そういう身体の低いところから、戦後の記憶が立ち上がってくる。

『アメリカひじき』では、戦後の子どもだった男が、大人になってアメリカ人をもてなす側に回る。食卓は整っている。客を迎えるだけの暮らしもある。けれど、そこへふいに、かつて「アメリカひじき」と呼ばれたものの記憶が戻ってくる。栄養のあるありがたい食べ物だと思っていたものが、実は別のものだったと知る。その落差は、単なる勘違いではなく、敗戦国の子どもが飲み込まされた屈辱そのものだ。

『火垂るの墓』は、アニメ映画の印象が強い人も多いはずだ。ただ、原作の清太は、悲劇の主人公としてきれいに整えられていない。妹を思う気持ちはある。けれど、意地もあるし、甘えもあるし、周囲の大人への反発もある。親戚の家を出て、防空壕で節子と暮らす選択は、勇敢な自立というより、子どもの誇りと幼さが混ざった危うい判断として迫ってくる。

この二作が苦しいのは、戦争が「悪いもの」として外側に置かれていないからだ。飢えは、人をやさしくしない。家族を守りたい気持ちも、空腹の前ではゆがむ。生き残るために自分を優先した記憶は、戦争が終わっても消えない。野坂は、その消えなさを、説教ではなく胃の底の違和感として書く。

戦争文学を読まなければと思っている人よりも、むしろ、戦争という言葉が大きすぎて実感できない人に向いている。食事の前に手が止まるとか、缶に入った飴の音を少し違って聞くとか、そういう小さな身体反応として残る一冊だ。

2. 『エロ事師たち』(性と笑いと悲哀が渦巻く初期長篇)

『火垂るの墓』のあとにこの本を置くと、野坂昭如という作家を「反戦文学の人」だけで閉じ込められなくなる。『エロ事師たち』は、ブルーフィルム、見世物、裏稼業、性をめぐる商売で食いつなぐ男たちの話だ。タイトルの通り下品で、騒がしく、いま読むと引っかかる表現も少なくない。だが、その引っかかりを含めて、戦後の都市がどんな欲望を燃料にして回っていたかが見えてくる。

ここに出てくる人間たちは、誰も立派ではない。金のために人をだます。女を利用する。大きなことを言うわりに、すぐ逃げる。けれど、彼らのいやらしさは、どこか生活の臭いをまとっている。性は快楽である前に商売であり、商売である前に食うための手段だ。そこを野坂は、きれいに裁かない。

読み味は、かなり饒舌だ。文章が前へ前へと転がり、説明、脱線、悪態、笑いが一息に流れ込んでくる。場末の映画館、安っぽい部屋、酒の匂い、湿った布団、そこで交わされるしょうもない駆け引き。そうしたものが、上品な文学の外側から押し寄せてくる。

この本を読むと、野坂にとってエロスは、ただの刺激ではなく、戦後社会の生存装置だったのだとわかる。戦争で失われたものを、性で埋められるわけではない。それでも、身体が動き、金が回り、誰かが笑い、誰かが傷つく。そのどうしようもなさを、野坂は猥雑な喜劇として書いた。

品のいい小説を読みたい日に開く本ではない。むしろ、正しさや清潔さばかりで息が詰まる夜に読むと、この本の俗っぽさが妙に効く。人間はここまでくだらなくても生きている。そう言われて、少しだけ肩の力が抜ける。

3. 『骨餓身峠死人葛』(近親相姦と炭坑の地獄絵を描く伝奇的傑作)

野坂昭如の濃度を浴びるなら、この本は避けて通れない。九州の峠、炭坑、墓標にからみつく死人葛、少女たかを、貧しさ、近親、死。素材だけを並べると怪奇小説のようだが、読んでいると、もっとぬめったものに触れている感覚になる。人間の生と死が、土と汗と血の中でほとんど分けられなくなっている。

舞台となる骨餓身峠という名からして、すでに異界の入口のようだ。炭坑で人が死に、死者のそばに白い花が咲く。美しいものが、腐敗や犠牲から立ち上がる。その構図は、野坂の作品全体にも通じている。きれいな花を見ているはずなのに、根元に何が埋まっているかを考えずにはいられない。

読みやすい本ではない。方言、古風な語り、うねるような文体が絡み合い、最初の数ページで足を取られる人もいると思う。けれど、その読みにくさは欠点というより、この土地から簡単に出られない感覚とつながっている。すらすら消費できないからこそ、炭坑の湿度や閉塞感が体に残る。

性的なタブーも、暴力も、救いのなさもある。苦手な人は無理に急がなくていい。『アメリカひじき・火垂るの墓』で野坂の核を知り、『エロ事師たち』で猥雑なリズムに慣れてから読むほうが、作品の異様さを受け止めやすい。

この本を読み終えると、野坂は戦争だけを書いた作家ではなく、「人間が文明の薄皮を失ったとき、何に戻るのか」を書いた作家でもあるのだとわかる。夜に読むと重い。だが、明るい昼間に読んでも、ページの奥から湿った土の匂いが上がってくる。

4. 『とむらい師たち』(葬儀をめぐるブラックユーモア連作)

死を扱っているのに、読み口は妙に騒がしい。『とむらい師たち』は、葬儀をめぐる人間模様を通して、死者を送るはずの儀式が、いかに生者の見栄や商売や世間体にまみれているかを描く作品だ。泣く場所のはずなのに、金の話が出る。厳粛であるべきなのに、段取りがあり、演出があり、失敗もある。

野坂は、葬儀ビジネスを単純に笑い飛ばしているわけではない。人間は、大きな死をそのまま受け止められない。だから形式が必要になる。棺、花、読経、挨拶、香典、親族の立ち位置。どれもどこか滑稽で、同時に、残された人がどうにか日常へ戻るための足場でもある。

この本の面白さは、死が特別なものとして遠ざけられず、生活の延長に置かれているところにある。とむらい師たちは、死者への敬意と商売の算段を同時に抱えている。そこに不謹慎さを感じる人もいるだろう。けれど、食っていかなければならない人間にとって、死もまた仕事になる。その現実を野坂はよく知っている。

身近な葬儀に出たあとや、親族関係のぎこちなさに疲れたときに読むと、この本のブラックユーモアは意外に効く。人は死の前で清らかになるとは限らない。むしろ、普段隠していた見栄や弱さが露出する。そのいやらしさを笑えるかどうかで、読後感が変わる一冊だ。

5. 『文壇』(虚実皮膜の作家自画像)

文壇

文壇

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『文壇』は、野坂昭如を作品の外側から知りたい人に向いている。ただし、単なる回想録や暴露本ではない。作家、編集者、酒席、噂、嫉妬、義理、賞、締切。文学が高尚な顔をしている裏側で、どれほど人間くさいものに支えられているかを、野坂は半分笑いながら、半分自分の身を削りながら書いていく。

文壇という言葉には、いまでは少し古めかしい響きがある。だが、この本を読むと、それは単なる作家の集まりではなく、名声と生活と孤独が絡んだ濃い共同体だったのだとわかる。誰かが評価されれば、誰かがざわつく。誰かが落ちれば、別の誰かがほっとする。文学の世界も、会社や町内や家族と同じように、逃げ場のない人間関係でできている。

野坂の面白さは、自分もその渦の中にいるのに、少し離れたところから自分を見ている点だ。大物ぶりたい気持ちも、認められたい欲も、作家仲間への反発も、どこか照れながら出してしまう。虚実の境目がゆらぎ、どこまでが実話でどこからが作り事なのか、読者は何度も足元を確かめることになる。

小説をいくつか読んだあとに開くと、野坂の「語り」の正体が少し見える。戦争を書くときも、性を書くときも、彼は自分を安全圏に置かない。文壇を書くときにも、自分の見苦しさを同じ机の上に載せる。作家の生身を見たいときに効く本だ。

6. 『あ・じゃ・ぱん!』(周辺から戦後日本の奇妙な像を見る一冊)

この本は野坂昭如の単著ではないため、野坂作品を順番に読みたい人は、まず前後の作品から入るほうがいい。ただ、戦後日本の奇妙さ、国家というものの胡散臭さ、政治と娯楽が混線する感覚を考えるうえでは、野坂と並べて読む価値がある。

『あ・じゃ・ぱん!』には、現実の日本を少しずらしたような、過剰で騒がしい世界がある。国境、政治、メディア、ナショナリズム、流行語、笑い。そうしたものがごった煮になり、読者は「これはふざけているのか、それともかなり本気なのか」と何度も迷う。その迷い方は、野坂の風刺や饒舌にも通じる。

野坂昭如の小説を読んでいると、戦後日本はいつも、アメリカへの屈辱、焼跡の記憶、経済成長の浮かれ、性と商売の臭いを抱えた場所として現れる。この本を挟むと、その場所が別の作家の手でどれほど奇怪に変形されうるかが見えてくる。野坂本人の著作から少し横へ出て、同じ戦後を別の鏡で見るような位置づけだ。

読む順としては、最初の一冊にはしないほうがいい。『アメリカひじき・火垂るの墓』や『エロ事師たち』で野坂の核に触れたあと、戦後日本をもっと斜めに眺めたくなったタイミングで開くと生きる。重い本のあいだに挟むと、笑いながらも妙な冷や汗が出る。

7. 『真夜中のマリア』(アウトローたちへの優しい眼差し)

『真夜中のマリア』には、野坂作品の中でも少し違うやわらかさがある。夜の街、娼婦、アウトロー、貧しさ、犯罪の気配。そうした場所を描きながら、作品全体には、どうしようもない人間をそれでも見捨てない視線が流れている。

マリアという名前は象徴的だ。聖母のようでもあり、夜の女のようでもある。男たちにとって都合のいい救いとして見られる一方で、彼女自身もまた、傷つき、選び、時に突き放す。野坂は彼女を清らかな存在にしない。清らかではないからこそ、救いのように見える瞬間がある。

夜の描写は甘くない。ネオンは安く、酒は濁り、部屋には湿り気がある。そこにいる人々は、社会の外側に追いやられた人間というより、社会そのものがこぼしたものを拾って生きている人間たちだ。野坂は、そこに憐れみだけを向けない。ずるさも弱さも込みで、彼らを生きている人間として扱う。

『エロ事師たち』の騒がしさが少し強すぎる人は、この本を挟むといい。猥雑さは残っているが、視線はもう少ししっとりしている。夜の底で誰かのやさしさを信じたい気分のとき、ただし甘い慰めはほしくないときに合う。

8. 『騒動師たち』(イベント屋たちの風刺喜劇)

『騒動師たち』は、野坂の風刺性を読むための一冊だ。世の中を騒がせることを仕事にする人間たちが出てくる。イベント、宣伝、選挙、メディア、街頭の空気。人々を動かすためには、正しさよりも勢いがいる。誠実さよりも見せ方がいる。そのいやらしさを、野坂は笑いの形で描く。

この本がいま読んでも古びにくいのは、「騒動」が日常化した時代をこちらが生きているからだと思う。何かが炎上し、誰かが謝罪し、別の誰かがそれを利用し、また次の話題へ移る。野坂の描く騒動師たちは、現代の広告やPRやSNSの手つきと、どこか重なって見える。

ただし、登場人物たちは悪の黒幕ではない。食っていくために騒ぎを作り、依頼されたものを盛り上げ、必要なら理念も使う。そこにあるのは、冷酷な操作というより、仕事としての軽薄さだ。その軽薄さが、社会を少しずつ壊していく。

重い戦争文学の合間に読むと、野坂の別の顔が見える。彼は過去の惨禍だけを見ていたのではなく、戦後の日本が何を笑い、何に乗せられ、何を忘れていくのかを見ていた。ニュースやSNSに疲れた日に読むと、笑いながらも、自分もまた騒動の観客になっていることに気づかされる。

9. 『インポテンツ』(快作十篇を収めた短編集)

タイトルだけを見ると、性的不能をめぐる露悪的な短編集に思える。もちろん、野坂はその露悪を避けない。だが『インポテンツ』で本当に読ませるのは、男の身体の衰えや不全を通して、自尊心がどれほどあっけなく崩れるかということだ。

野坂作品では、男たちはよく喋る。威張る。女を欲望の対象にする。ところが、その欲望の足場がぐらつくと、途端に滑稽で哀れな存在になる。『インポテンツ』の面白さは、その滑稽さを笑いながらも、読者自身の弱さにまで話が及んでくるところにある。

性の問題は、ここでは単なる行為の可否ではない。老い、見栄、社会的な役割、男であることへのこだわり、他人からどう見られるかという恐怖。そうしたものが、身体の不調をきっかけに一気に浮かび上がる。だから、読後には性的な話を読んだというより、人間が自分を保つためにどれだけ虚勢を必要としているかを見た感覚が残る。

短篇集なので、長篇の濃さに入る前の慣らしにも向いている。疲れているときに一気読みするより、数篇ずつ読むほうがいい。自分の弱さを笑える日には痛快で、笑えない日には少ししんどい。その揺れを含めて、野坂らしい本だ。

10. 『同心円』(吉川英治文学賞受賞・人生の総決算的連作長篇)

同心円

同心円

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ここまでの短篇や猥雑な作品で野坂に慣れたら、『同心円』へ進むといい。大正、戦中、戦後へと広がる一族の物語であり、男の一生をめぐる長篇であり、同時に野坂が自分の内側にある血縁、欲望、逃げ癖を大きな輪として描き直した作品でもある。

タイトルの「同心円」はわかりやすい。ひとりの人間を中心に、家族、女、子ども、時代、戦争、金、酒が波紋のように広がっていく。けれど、その輪はきれいな模様を描かない。誰かの身勝手が別の誰かに伝わり、親の弱さが子に影を落とし、時代の暴力が家庭の中に入り込む。

主人公は、尊敬できる男として描かれていない。むしろ、どうしようもない。逃げる。ごまかす。欲に負ける。けれど、そのどうしようもなさを長い時間で追っていくと、単なる個人の欠点ではなく、時代そのもののゆがみが透けてくる。

この本は、野坂の中では比較的「大きな小説」を読みたい人に向いている。短篇の切れ味よりも、長い人生の中で同じ過ちが形を変えて戻ってくる怖さがある。家族小説や一族ものが好きな人なら、毒の強さに驚きつつも、読み進めるほど逃げられなくなるはずだ。

若い時期に読むと、だらしない大人たちの話に見えるかもしれない。けれど、家族や仕事や責任から簡単に逃げられない年齢になって読むと、別の痛みが出る。自分もまた、誰かの同心円の中にいる。その感覚が残る長篇だ。

11. 『赫奕たる逆光』(三島由紀夫への私的レクイエム)

副題は「私説・三島由紀夫」。ただしこれは、三島由紀夫を外側から論じた冷静な評伝ではない。野坂が三島という眩しすぎる存在を、自分の戦後、自分の文壇、自分の劣等感や反発と重ねながら見つめた本だ。

三島は、野坂にとって単なる有名作家ではない。同時代を生きた作家であり、文学の世界で強烈な光を放った人物であり、その死によって戦後日本の一つの裂け目を見せつけた存在でもある。タイトルの「逆光」はよく効いている。三島を見ようとすると、光が強すぎて、見ている野坂自身の影まで浮かび上がる。

この本で面白いのは、野坂が三島を神にしないことだ。天才として認めつつ、滑稽さも、人間臭さも、どこか芝居がかった身振りも見ている。賛美と距離感が同時にあるから、読んでいて息苦しくならない。

三島文学をかなり読んでから開くと細部がよく響くが、名前だけ知っている状態で読んでも、作家が作家にどう嫉妬し、どう憧れ、どう反発するのかが見えて面白い。野坂昭如を「戦争の語り部」としてだけでなく、文学者の群れの中に置いて見たいときに読む本だ。

12. 『マリリン・モンロー・ノー・リターン』(歌詞と雑文で読む時代精神)

野坂昭如を読むとき、小説だけを追っていると少しもったいない。彼は歌の人でもあった。『マリリン・モンロー・ノー・リターン』は、作詞家、歌手、時代の観察者としての野坂に触れるための一冊だ。

マリリン・モンローという名には、消費されるスターの華やかさと痛ましさが重なる。野坂はそこに、女性だけでなく、時代に使い捨てられていく人間の姿を見ている。軽い歌のように聞こえるものの奥に、終わり、喪失、諦め、から騒ぎの寂しさが沈んでいる。

短い文章や歌詞を読むと、野坂の言葉が耳から来ることがよくわかる。小説の文章も、ただ意味を運ぶだけではなく、節回しを持っている。悪態も、比喩も、急な脱線も、どこか歌のリズムに近い。ここを読んでから小説に戻ると、野坂の文体の音が少し聞き取りやすくなる。

まとまった長篇を読む気力がないとき、ぱらぱらめくるのに向いている。テレビ、歌謡、昭和の芸能、アメリカへの憧れと反発。そのあたりに関心がある人には、野坂がなぜ小説の外でも存在感を持ったのかが伝わるはずだ。

13. 『野坂昭如エッセイ・コレクション1 ソレデドウシタ』(入門編に最適な精選エッセイ)

小説の濃さに少し構えてしまう人は、このエッセイ集から入ってもいい。『ソレデドウシタ』という題が、すでに野坂らしい。戦争を語る。政治を語る。芸能を語る。日常の些事を語る。けれど最後には、どこかで「それでどうした」と肩をすくめるような、ふてぶてしい呼吸がある。

野坂のエッセイが読ませるのは、正論の強さではない。むしろ、自分の中の矛盾を隠さないところだ。戦争を憎みながら、自分の生き残り方の恥を忘れない。社会を批判しながら、俗な楽しみからも離れない。怒っているのに、どこか照れている。そのねじれが、人間として信用できる。

小説では文体の濃さに圧倒される人でも、エッセイなら野坂の考え方の輪郭をつかみやすい。短い文章を読みながら、「この人は何を忘れまいとしているのか」「何に腹を立てているのか」を拾っていくと、その後の小説が読みやすくなる。

朝に読むより、夜のほうが似合う本だと思う。一日の終わりに、ニュースや人間関係で少し疲れた頭に、野坂のぶっきらぼうな声が入ってくる。慰めてはくれない。だが、世の中をきれいに見すぎるな、と言ってくれる。

14. 『忘れてはイケナイ物語り』(戦争を知らない世代に手渡す映像作品)

これは書籍というより、野坂昭如の戦争童話を映像として受け取るための作品だ。『ソルジャーズ・ファミリー』『馬と兵士』という題名からもわかるように、戦争を大人の政治や作戦の話としてではなく、家族や動物や子どもの側から見ようとしている。

野坂の戦争童話は、子ども向けだから軽いわけではない。むしろ、やさしい語り口で残酷なことが起こるため、逃げ場が少ない。大人の言葉で「戦争は悲惨だ」と説明されるより、馬や家族や小さな命が巻き込まれる物語のほうが、子どもにはまっすぐ届くことがある。

映像で触れると、文字だけで読むときとは違う距離が生まれる。絵や声や間があるぶん、親子で見たあとに話しやすい。すべてを説明しなくてもいい。「どう思った?」と聞くくらいで十分な場面もある。戦争を知識として教える前に、物語として受け取る入口になる。

本だけで野坂を追いたい人は、次の『戦争童話集 完全版』を優先するといい。こちらは、戦争童話がどのように語り継がれてきたかを知る補助線として置くと生きる。野坂を読むことが、ページの中だけに閉じないことを教えてくれる一本だ。

15. 『三島由紀夫という存在』(石原慎太郎・野坂昭如による三島論)

『赫奕たる逆光』を読んだあとに、この本へ進むと、三島由紀夫をめぐる野坂の位置がより立体的に見えてくる。石原慎太郎と野坂昭如。どちらも戦後文学の中で強い個性を持ち、政治やメディアとも関わった書き手だ。その二人が三島を語るとき、三島だけでなく、語っている側の戦後観も露出する。

石原の言葉には、三島の行動へ直線的に向かう強さがある。一方、野坂の視線は、どこか斜めだ。惹かれている。認めている。けれど、同じ方向に立っているわけではない。その距離があるから、三島は神話になりすぎず、一人の作家、一人の男として見えてくる。

この本は、野坂の小説を楽しむための入口ではなく、野坂を同時代の作家たちの中に置き直すための本だ。戦後、文学、ナショナリズム、身体、死。そうした言葉が、三島を通して複数の角度から照らされる。

三島由紀夫に詳しくなくても読めるが、先に『赫奕たる逆光』を読んでおくと、野坂の言葉の温度差がつかみやすい。作家同士の距離感に興味がある人、戦後文学を一人の作家だけでなく関係性の中で見たい人に向いている。

16. 『戦争童話集 完全版』(中公文庫)

野坂昭如の戦争童話をまとめて読むなら、この『戦争童話集 完全版』は外せない。童話という言葉には、やさしく包まれた話という印象がある。だが、ここで語られる戦争は、子どもにも読める形をしているだけで、内容は少しも甘くない。

空襲、飢え、動物、母子、兵士、沖縄。ひとつひとつの物語は短くても、そこには「戦争は大人だけのものではない」という当たり前で重い事実がある。子どもは戦争を決めない。けれど、最も弱い場所で巻き込まれる。野坂の童話は、その理不尽を、大きな声で糾弾するのではなく、小さな命の視点から見せる。

『火垂るの墓』と響き合う部分も多い。ただし、こちらはより「語り継ぐ」ことを意識した本だ。個人の痛みを作品に閉じ込めるのではなく、次の世代へ渡すために、物語の形を変えている。だから、子どもと読むときも、大人だけで読むときも、受け取り方が少し違う。

一篇ずつ読んで、すぐ次へ進まないほうがいい。短いからこそ、読み終えたあとに間を置く。その間に、爆撃の音や、母親の姿や、動物の目が残る。八月に読む本として選んでもいいし、逆に、戦争の記憶が季節行事になってしまうことに違和感があるときに読むのもいい。

17. 『昏い時代の読書 宮嶋資夫から野坂昭如へ』(講談社選書メチエ)

これは野坂昭如の著作そのものではなく、野坂を読むための批評書として置きたい一冊だ。宮嶋資夫から野坂昭如へ、という副題の通り、文学が「昏い時代」とどう向き合ってきたかを、複数の作家を通して考えていく。

野坂を単独で読むと、どうしても「奇才」「焼跡闇市派」「火垂るの墓の作家」という強いラベルで見てしまう。だが、この本を挟むと、彼が戦前・戦中・戦後の文学の流れの中に置き直される。戦争へ近づいていく時代、戦争をくぐった時代、戦後にそれをどう語るかという時代。野坂の文章は、その連続の中で読んだほうが深くなる。

批評書に慣れていない人には、最初から読むより、野坂作品を数冊読んだあとに手に取るほうがいい。『アメリカひじき・火垂るの墓』『戦争童話集 完全版』『絶筆』あたりを読んでから開くと、作品の背後にある文学史の影が見えやすくなる。

この本の役割は、野坂を「好きか嫌いか」から少し離すことだ。作品に圧倒されたあと、なぜこの作家はこういう言葉を選んだのか、どんな時代の読書が彼の前にあったのかを考えたいときに向いている。後半の一歩として、かなり効く。

18. 『新編 「終戦日記」を読む』(中公文庫)

『新編 「終戦日記」を読む』では、野坂は小説家というより、他人の残した言葉を読む人として現れる。終戦前後の日記をたどりながら、作家や政治家や知識人が、あの夏をどう記したのかを見ていく本だ。

日記は、あとから整えられた回想とは違う。その日の迷い、保身、怒り、疲れ、妙な平静さが、そのまま残ってしまう。野坂はそこに、自分自身の戦争体験を重ねる。引用された日記の向こうに、当時の人間の息遣いがあり、その手前に、戦争孤児だった野坂の記憶がある。

この本を読むと、終戦という日が、教科書の中の一行ではなくなる。玉音放送を聞いた人、空襲をくぐった人、敗戦を受け止めきれない人、すぐに生活の算段を始める人。歴史はひとつの大きな出来事として語られがちだが、その内側には無数の小さな日付がある。

『戦争童話集 完全版』が物語として戦争を渡す本なら、こちらは記録を読むことで戦争の温度を測る本だ。戦争文学を感情だけで受け止めるのではなく、当時の言葉のざらつきから考えたいときに向いている。

19. 『終末の思想』(NHK出版新書)

後半に置く本として、『終末の思想』はとても重要だ。野坂昭如の作品をいくつか読むと、戦争、飢え、性、老い、社会不安、原発、食糧、家族の崩れといったテーマがばらばらに見えてくる。だが、この本を読むと、それらが「終わり」を見つめる感覚でつながっていることがわかる。

ここでいう終末は、世界が派手に滅びるという話だけではない。人間の身体が終わる。家族の形が終わる。戦後という時代が終わる。食べ物や土地との関係が壊れていく。野坂は、そうした終わりを遠い未来の話ではなく、日々の生活の内側で進むものとして見ている。

新書なので、小説より入りやすい。けれど、軽い解説本ではない。野坂の言葉には、戦争をくぐった人間のしつこさがある。社会の危機を語るときにも、抽象的な正義より、米、畑、身体、老い、子どもといった具体物に戻っていく。その戻り方が、野坂らしい。

ニュースを見ていて、世の中がどこへ向かっているのかわからなくなる時期に読むと、かなり刺さる。悲観だけではない。終わりを見つめることで、何を手放し、何を残すのかを考える本でもある。小説を読んだあと、野坂の思想の骨組みをつかみたい人に向いている。

20. 『絶筆』(新潮文庫)

最後に置きたいのは『絶筆』だ。脳梗塞で倒れたあと、野坂昭如が晩年に書き続けた日記とエッセイが収められている。小説のような構成美を求める本ではない。日々の体調、政治への苛立ち、過去の記憶、世の中への不安、老いた身体の不自由さが、短い言葉として積み重なる。

この本の読みどころは、野坂が最後まで「語ること」を手放さなかった点にある。饒舌だった人間が、身体の自由を失ってもなお、世界への反応をやめない。酒も煙草もかつてのようにはいかない。身体は思うようにならない。それでも、言葉だけは、細く、しぶとく続いていく。

晩年の文章には、戦前が近づいているという危機感がある。だが、それは時代への単なる警句ではない。空襲、飢え、妹の死、生き残った者の罪悪感を抱えた人間が、現在の社会を見て発した言葉だ。だから重い。重いが、どこかふてぶてしい。

『絶筆』は、野坂昭如を初めて読む一冊ではない。少なくとも『アメリカひじき・火垂るの墓』と『戦争童話集 完全版』、できればエッセイを一冊読んでから開くほうがいい。そうすると、晩年の日記の一行一行が、長い作品群の最後の残響として聞こえてくる。

読み終えると、作家の死を知るというより、最後まで世界を見張っていた人の目つきを思い出す。野坂昭如を「読み終える」ためではなく、読み続けるための最後の入口になる本だ。

関連グッズ・サービス

野坂昭如の本は重い。まとまった時間を取って紙で読むのが合う作品もあれば、短篇やエッセイのように、電子書籍で少しずつ読み進めるほうが続きやすい作品もある。関連サービスは、読書環境を整える補助として最小限に置いておく。

Kindle Unlimited

Audible

夜に読むなら、目と手元が疲れにくい道具や、温かい飲み物があるだけでも少し違う。重い物語に入る前に、読む場所を整える。それだけで、最後まで付き合える本もある。

 

 

 

まとめ|野坂昭如は、戦争をきれいな記憶にしない作家だ

野坂昭如を読むと、戦争も、性も、老いも、文壇も、どこかで同じ場所につながっていることがわかる。人間は腹が減れば弱くなる。見栄を張る。逃げる。誰かを傷つける。それでも、しぶとく生きようとする。野坂は、その情けなさを隠さず書いた。

最初の一冊なら、やはり『アメリカひじき・火垂るの墓』がいい。短篇で読みやすく、野坂の核がいちばん強く出ている。そこから猥雑な昭和へ進みたいなら『エロ事師たち』、文体の濃さに踏み込みたいなら『骨餓身峠死人葛』、長篇で人生の輪を見たいなら『同心円』が向いている。

  • 戦争と飢えの記憶から入るなら、『アメリカひじき・火垂るの墓』から『戦争童話集 完全版』へ進む。
  • 野坂の下品さ、笑い、昭和の欲望を知りたいなら、『エロ事師たち』『真夜中のマリア』『騒動師たち』を読む。
  • 作家本人の思想や晩年を追うなら、『ソレデドウシタ』『終末の思想』『絶筆』の順がいい。
  • 三島由紀夫や戦後文学との関係を見たいなら、『赫奕たる逆光』『三島由紀夫という存在』『昏い時代の読書』へ広げる。

野坂の本は、読み終えて気持ちよく閉じられる本ばかりではない。むしろ、こちらの中にある見苦しさを照らしてくる。それでも読みたくなるのは、その見苦しさを含めて、人間は生きてきたのだと教えてくれるからだ。

FAQ(よくある質問)

Q. 野坂昭如はどの一冊から読むのがいい?

まずは『アメリカひじき・火垂るの墓』がいい。短篇なので入りやすく、戦争、飢え、屈辱、生き残った者の罪悪感という野坂の核が詰まっている。ジブリ映画の『火垂るの墓』を知っている人も、原作では清太の幼さや見栄がよりざらついて感じられるはずだ。そこから、猥雑な昭和へ進むなら『エロ事師たち』、文体の濃さを味わうなら『骨餓身峠死人葛』へ進むといい。

Q. 『火垂るの墓』だけ読めば、野坂昭如はわかる?

『火垂るの墓』は代表作だが、それだけでは野坂昭如の半分も見えない。戦争の記憶は大きな核だが、彼の作品には性、商売、酒、歌、文壇、老い、終末観まである。『火垂るの墓』で感じた痛みを、戦後の猥雑な生活へ広げるなら『エロ事師たち』、晩年の思想へ伸ばすなら『終末の思想』や『絶筆』を読むと、野坂の輪郭がかなり変わって見える。

Q. 野坂昭如の作品は重すぎない? 読むタイミングはある?

重い本は多い。特に『火垂るの墓』『戦争童話集 完全版』『絶筆』は、気持ちが弱っている日に一気読みするとしんどいかもしれない。そういう時期は、エッセイの『ソレデドウシタ』や、短篇を少しずつ読むほうがいい。八月の戦争特集として読むだけでなく、日常の食事や家族や社会のニュースに小さな違和感を覚えたときに読むと、野坂の言葉はより近くなる。

Q. 戦争を知らない世代でも読める?

読める。むしろ、戦争を直接知らない世代ほど、野坂の作品は「知識」と「身体感覚」の距離を埋めてくれる。彼は戦争を大きな歴史としてだけではなく、空腹、缶入りの飴、親戚の家の居づらさ、子どもの意地として書く。だから、教科書の言葉では届きにくい部分が残る。子どもと共有したい場合は、『戦争童話集 完全版』のような本から一篇ずつ読むのもいい。

Q. 小説以外で野坂昭如を知るならどれがいい?

エッセイなら『野坂昭如エッセイ・コレクション1 ソレデドウシタ』が入りやすい。作家本人の声に近く、戦争、芸能、社会、日常への視線がまとまって見える。思想の見取り図をつかみたいなら『終末の思想』、晩年の生身に触れたいなら『絶筆』がいい。小説で圧倒されたあとに読むと、あの饒舌な文体の奥にあった怒りや諦めが見えてくる。

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