高楼方子の作品は、笑いの隙間に、子どもの誇りや不安がきちんと息をしている。まずは代表作級のシリーズから、静かな長編、一般文芸まで、作品一覧として流れがつかめる順にまとめた。読後に残るのは「やさしさ」だけではなく、明日を少しだけ軽くする発想の手つきだ。
- 高楼方子(たかどの ほうこ)とは
- へんてこもりのはなし(シリーズ)
- まあちゃん(絵本)
- つんつくせんせい(絵本・シリーズ)
- 児童文学(長編・読み物)
- 絵本(単発)
- 一般文芸(児童文学以外)
- 関連グッズ・サービス
- まとめ
- FAQ
- 関連リンク
高楼方子(たかどの ほうこ)とは
高楼方子(たかどの ほうこ)の物語は、現実からふっと外れた場所に入り、外れたまま日常へ戻ってくる。その往復がうまい。森の中で起きることば遊びの騒動も、洋館での下宿生活も、奇妙な学校に迷い込む話も、どれも「子どもの目で世界を見直す」装置になっている。笑っているのに、胸の奥が少しだけ整っていく感覚がある。
文章は軽やかなのに、人物の感情は粗くならない。自分の気持ちを守るための小さな嘘、言えなかった一言、憧れと嫉妬の混ざった視線。そういう濁りを「濁りのまま」扱う。だから、読み聞かせで声に出しても、ひとり読みで黙って読んでも、どちらでも効く。
受賞歴のある作品も多いが、肩書きより先に「読んでいる最中の空気」が記憶に残る作家だ。ページをめくる指先が温かくなる日もあれば、静かに冷える日もある。読者がその日の自分に合わせて入口を選べる作家でもある。
へんてこもりのはなし(シリーズ)
1. へんてこもりにいこうよ(偕成社/単行本)
このシリーズの最初の一冊は、「森に行く」話でありながら、実際には「ことばの奥へ入っていく」話でもある。そらいろ幼稚園の仲よし四人組が、ヘンテ・コスタさんの〈へんてこもり〉へ出かける。その入り口の軽さがいい。遠足みたいに足が弾むのに、着いた先で出会うものが、予想の一歩先を踏ませてくる。
鍵になるのは、しりとりや言い間違いのような、子どもの会話に紛れている小さなズレだ。大人の読者は「かわいい遊び」として見てしまいがちだが、この本はそこを踏み台にして、世界そのものを作り替える。森の空気が、言葉の形に合わせてくるりと変わる感じがある。
出会いの中心にいる「まるぼ」は、単なるマスコットではない。意味が確定しない存在が、仲よし四人組の勇気を引き出す。よく分からないものに出会ったとき、怖がって引き返すのではなく、名前を付けたり、遊び方を探したりして「自分の側に置く」。その練習が、物語の中でさりげなく行われる。
読み聞かせだと、笑いが先に来る。声に出すと、音の転がりが素直に楽しい。ただ、読み終わったあとに残るのは「楽しかった」だけではない。子どもが自分の言葉で世界に触れる瞬間が、ちゃんと尊重されている。
一冊目としての強さは、説明を急がないところにもある。森のルールを全て解説せず、体で覚えさせる。読者は「分かった気」より先に「慣れてしまう」。その慣れが、次の巻に自然につながる。
気分が固い日に読むほど効く本でもある。頭が真面目になりすぎているとき、この森は「ずらしていい」と言ってくれる。子どもに向けた物語なのに、大人の呼吸をほどく力がある。
2. へんてこもりのコドロボー(偕成社/単行本)
二作目は、タイトルからして音が面白い。コドロボー。子どもの耳に残る、不穏さと可笑しさが混ざった語感だ。そして本当に、この巻は「笑っていいのに、ちょっとだけ怖い」温度で進む。
小道を行くルールとして「正しく歌ってスキップしないといけない」という条件が置かれる。ばかばかしいようでいて、これが妙に効く。間違えた瞬間に何かが起きる緊張と、歌いながら跳ねる身体の軽さ。その同居が、読書体験を立体にする。
へんてこもりの良さは、危機が「罰」にならないところだ。失敗しても人格を否定しない。ただ、森が森の法則でこちらを揺さぶる。だから読者は、怖がりながらも「もう一回やってみる」気分になる。子どもの挑戦心に火を付ける形が、とても誠実だ。
まるぼの存在も、この巻では頼もしさを増す。先導者というより、混乱の中で一緒に転び、一緒に立ち上がる仲間に近い。大人が安全に導く構図ではなく、子どもたちの側で事件が解かれていく。
読みどころは、ことばが身体になる瞬間だ。スキップの着地音、歌のリズム、息が切れる感じ。文字のはずなのに、読んでいる側の足首が少しだけ軽くなる。そういう不思議がある。
子どもはもちろん、失敗が怖い大人にも向く。うまくやれないときに、世界のほうをちょっとだけ遊びに寄せてみる。その発想を、物語の形で手渡してくる。
3. へんてこもりのなまえもん(偕成社/単行本)
「なまえもん」という存在が出てくる時点で、この巻は“名づけ”そのものを揺らしてくる。名前は本来、安心の道具だ。分からないものを分かる側へ引き寄せる。でも、この巻では、名前がうっかりすると飲み込まれる入口にもなる。
ぼさこうとうるりんぞが食べられてしまい、それを助け出すために仲よし四人組が動く。筋としては救出劇なのに、読み味はどこか軽やかだ。恐怖を増幅させる演出ではなく、知恵と遊びで抜け道を探す。怖いものを怖いまま放置しない姿勢がある。
この巻で面白いのは、言葉が「看板」ではなく「生き物」になっている点だ。名づけた途端に固定されるのではなく、名づけたせいで変な性質が増えることもある。子どもが日常で感じる「言った瞬間に空気が変わる」を、森の事件として可視化している。
読者は、助けたい気持ちと、うかつに近づけない気持ちの間で揺れる。その揺れが丁寧だ。勇敢さだけを称えない。怖いと思うのも正しい、とちゃんと認める。そのうえで一歩進む。
読み聞かせなら、途中の言葉の転がりで笑いが起きる。ひとり読みなら、「どうやって逃げるのか」の工夫が楽しい。どちらでも、読後に残るのは“名前”への感度だ。相手を呼ぶとき、少しだけ慎重になる。
シリーズを追うほど、この森は「ことばの練習場」になっていく。ここで覚えた回避の仕方は、教室や家の会話にも静かに持ち帰れる。
4. へんてこもりのきまぐれろ(偕成社/Kindle版)
この巻の芯は、「物語の中身が逃げる」という発想だ。ホンリエーヌちゃんが読んでいた本から、きまぐれろが逃げ出してしまう。言葉の森に、さらに“本の森”が重なる。読み手としては、設定だけで少しわくわくする。
本を読んでいるとき、突然集中が切れて内容がすり抜けることがある。さっきまで確かに掴んでいたはずなのに、今はもう思い出せない。きまぐれろは、その感覚をキャラクターにして走らせる。逃げたのは物語の中身で、追うのは読者の気持ちでもある。
まるぼと仲よし四人組が探す過程は、単なる追跡ではなく「戻ってくる場所」を整える作業にも見える。探すだけだと、逃げたものはまた逃げる。戻る気になる居場所が必要だ。その発想が、子ども向けの冒険譚にすっと入っているのが上手い。
読みどころは、気まぐれさを“悪”として断罪しないところだ。きまぐれな存在がいるから、物語は揺れて面白くなる。規律だけでは生まれない余白がある。子どもにも大人にも、息がしやすい肯定だ。
シリーズが好きな子なら、森の住人たちの再会だけで嬉しい。ただこの巻は、それ以上に「読む」という行為自体を遊びに変える。読書が、勉強の道具じゃなく、追いかけっこの場になる。
読み終えると、積ん読の山が少しだけ怖くなくなる。逃げる物語があってもいい。いつか追いつけばいい。その気持ちをくれる。
5. へんてこもりのまるぼつぼ(偕成社/単行本)
この巻は、シリーズの顔である「まるぼ」に“にせもの”が現れる。子どもの世界でよく起きる、あのざわつきだ。好きなものが、いつの間にか別物にすり替わっている感じ。自分だけが気づいている気がして、でも言い出せない感じ。
事件の中心にあるのは「ことばぐさ」。言葉そのものが草のように生える森で、言葉の価値や真偽が揺れる。子どもはしばしば、言葉で傷つく。からかわれたり、勝手に決めつけられたり、噂に巻き込まれたり。そういう痛みを、へんてこもりは“事件”として扱う。
偽物がいると、本人の輪郭がむしろ鮮明になる。まるぼの魅力が、事件を通して立ち上がってくるのが気持ちいい。可愛いから好き、では終わらない。どうしてこの存在が必要なのか、読者の側で確かめ直せる。
この巻は、読み聞かせでも、ひとり読みでも「見分ける」楽しさがある。違和感を丁寧に拾う。決めつけで断罪しない。最後にちゃんと手触りで納得する。推理というほど堅くはないが、思考の筋肉が少しだけつく。
同時に、真似されることの複雑さも残る。憧れの裏返しとしての模倣。悪意だけでは片づかない。そこが高楼方子のやさしさで、やさしさのまま甘くない。
シリーズを長く追ってきた読者ほど、この巻で「へんてこもりは成長している」と感じるはずだ。森の遊びが、社会の痛みに触れるところまで伸びている。
6. へんてこもりのころがりざか(偕成社/単行本)
「ころがりざか」という言葉だけで、足元が不安になる。転ぶ予感があるし、転んだ先で何かが変わる予感もある。この巻は、その予感を裏切らない。おやつの準備中に起きるトラブルが、森の性質と結びついて大ごとになる。
面白いのは、事件が“悪者を倒す”方向へ行かないことだ。ピンチはピンチとしてちゃんとあるが、勝敗ではなく「どう立て直すか」が中心になる。まるぼがピンチに陥るからこそ、仲よし四人組の関係も試される。
さらにこの巻では、へんてこもりを作ったヘンテ・コスタさんが登場する。世界の“作者”が顔を出す瞬間は、設定として強いのに、押しつけがましくない。作った人が現れても、世界は世界のまま動いている。子どもの遊び場に大人が入ってきたときの、あの微妙な空気もどこかに漂う。
坂を転がるように、言葉が転がっていく。その転がり方が、いつもより少しだけ急だ。読者の心拍も上がる。けれど最後には、坂の下でちゃんと息が整う。怖さを残さず、でも体験は残す。そのさじ加減が巧い。
読み終えたあと、何かを失敗しても「坂だっただけ」と言える気がしてくる。自分が悪いのではなく、坂の上に立っていたのだ、と。もちろん現実はそんなに単純ではないが、気持ちの立て直しには、この比喩が効く。
シリーズの中でも、節目の一冊として手触りが濃い。久しぶりに森へ帰る読者にとっても、初めての読者にとっても、森の“今”が分かる。
まあちゃん(絵本)
7. まあちゃんのながいかみ(福音館書店/単行本)
まあちゃんは、おかっぱ頭だ。そこからもう、物語の勝負が始まっている。髪の長い友だちが自慢すると、まあちゃんは負けない。これからもっとずっと伸ばす、と言う。小さな張り合いなのに、読んでいる側の胸がちょっと熱くなる。子どもの誇りは、だいたいこういう場面で顔を出す。
この本の気持ちよさは、想像がどんどん遠くへ行くところにある。吊り橋の上からおさげを垂らして魚を釣る。髪が長すぎて、生活の方が髪に合わせて変わっていく。現実的に考えたら大変なのに、まあちゃんは楽しげで、読者もつられて笑ってしまう。
ただのほら話では終わらない。まあちゃんの誇りは、誰かを傷つけるためではなく、自分を守るために膨らんでいく。負けたくない、という気持ちを、暴力ではなく想像で処理する。その健やかさがある。
読み聞かせだと、子どもが途中で口を挟みたくなる。「それ無理だよ」「じゃあこうしたら」みたいに。つまり、物語が会話を生む。親子でも教室でも、場がほぐれていく。
大人が読むと、まあちゃんの“言い返し”が羨ましい日がある。うまく言えなかったとき、心の中でだけでも、こんなふうにふくらませられたら救われる。想像は逃避ではなく、回復になる。
短い絵本なのに、読み終えると鏡を見る目が少し変わる。コンプレックスは、想像で遊べる余地にもなる。まあちゃんは、その入口をちゃんと見せてくれる。
8. まあちゃんのまほう(福音館書店/単行本)
「まほう」と言っても、杖を振って光らせる話ではない。まあちゃんのまほうは、身近な関係の中で起きる。自分の見方が変わった瞬間に、相手の顔つきまで変わって見える。子どもの日常の中にある、あの急な転調が主役になる。
まあちゃんは、わりと強気で、負けずぎらいだ。その強さが、時に誰かを困らせる。でも高楼方子は、強気な子を“困った子”として片づけない。強気の奥にある、照れや不安もいっしょに描く。だから読者は、まあちゃんを叱りたくなる前に、まあちゃんの気分へ寄り添ってしまう。
この本の読みどころは、魔法が“正しさ”を押し付ける方向に働かない点だ。誰かが反省して丸く収まる、というより、関係の中に新しい遊び方が増える。仲直りが「同じ場所へ戻る」ではなく、「違う場所へ進む」形になるのが気持ちいい。
絵本としてのリズムも良い。言葉が短く、場面が切り替わるたびに空気が変わる。読者の心も、そこで一回深呼吸できる。読書が“落ち着くための道具”になっている。
子どもに読ませたい絵本、というより、親子でいっしょに「今日の機嫌」を扱うための絵本だ。うまくいかなかった日の夜に読むと、叱る以外の手段が増える。
まあちゃんのシリーズは、子どもの“尖り”を丸めずに抱えられるところが強い。この巻も、その強さが素直に出ている。
つんつくせんせい(絵本・シリーズ)
9. つんつくせんせいかめにのる(フレーベル館/Kindle版)
つんつくせんせいの魅力は、正しい先生ではなく「騒動を呼ぶ先生」である点にある。子どもが先生に期待しているのは、安心だけではない。退屈を破る事件も、どこかで待っている。このシリーズは、その期待にまっすぐ応える。
「かめにのる」という題名の時点で、日常の規則から一歩はみ出す。園や教室の時間が、突然“冒険の時間”に変わる。子どもはここで、常識を疑う練習をする。疑うと言っても攻撃ではなく、「そんな手もあるのか」という柔らかい疑いだ。
読み味としては、とにかくテンポがいい。起きた出来事に対して、いちいち説教をしない。状況が転がっていき、子どもが笑いながら置いていかれ、置いていかれたまま追いつく。その往復が楽しい。
つんつくせんせいの行動は突飛だが、子どもを見下さない。子どもを“管理対象”として扱わず、遊びの相棒として扱う。その態度が、読んでいて気持ちいい。
大人が読むと、少し羨ましくなる。段取り通りに進めることが正義になりがちな日々で、「段取りを壊してもいい日」を思い出させる。
この一冊は、シリーズの入口としても良い。まず笑って、つんつくせんせいの速度に体を慣らすのがちょうどいい。
10. つんつくせんせいととんがりぼうし(フレーベル館/Kindle版)
とんがりぼうしは、何かの“役割”を背負った記号みたいなものだ。魔法使い、先生、えらい人。子どもは帽子を見て、相手を判断する。でもこの巻は、その判断を軽く裏切ってくる。帽子は権威ではなく、遊びの道具になる。
つんつくせんせいの周りでは、いつも小さな誤解が起きる。誤解は普通ならトラブルだが、ここでは物語の燃料だ。誤解があるから話が進む。つまり、完璧なコミュニケーションを目指さなくていい、と言ってくれる。
子どもにとって「先生」は遠い存在になりやすい。正しい言葉を使い、正しい行動を求める存在。でも、つんつくせんせいは遠さを壊す。近づいても怒られない。むしろ近づいた方が面白い。
読み聞かせでは、帽子が登場するたびに子どもの反応が変わる。笑いも出るし、「それってどういうこと?」という質問も出る。つまり、物語が考える遊びになる。
大人が読むと、肩書きや記号に頼ってしまう自分が見えてくる。とんがりぼうしは、心の中にもある。そこを軽くつつかれる。
シリーズとして読むと、つんつくせんせいが“ただの破天荒”ではなく、空気をゆるめる装置だと分かってくる。園の息苦しさをほどく役だ。
11. つんつくせんせいとくまのゆめ(フレーベル館/Kindle版)
「くまのゆめ」という題名には、やさしい匂いがある。夢の中は、正しさより願いが強くなる場所だ。子どもは夢を怖がることもあるが、同時に夢で自分を守る。そういう二重の気分を、このシリーズは軽やかに扱う。
つんつくせんせいの世界では、夢が現実へにじむ。にじみ方が乱暴ではない。寝起きのぼんやりした光みたいに、少しずつ輪郭が変わっていく。その変化を追うのが楽しい。
くまという存在も良い。強そうで、でもどこか寂しそうで、抱きしめたくなる。子どもの心の中にいる“こわいけど好き”が、くまに乗る。そこへ先生が関わることで、怖さがちょうどよく調理される。
この巻は、騒動の派手さより、気分の揺れが印象に残るタイプだ。笑いながら読んでいたのに、最後に少しだけ静かになる。眠る前に読むと、気持ちが落ち着く。
夢は説明するとつまらない。だからこの本も、理屈を急がない。読者は、夢の変な手触りをそのまま受け取れる。子どもの読書体験として、とても贅沢だ。
シリーズを追っていると、つんつくせんせいが「面倒を起こす人」ではなく、「怖さを薄める人」に見えてくる。その見え方の変化も面白い。
12. つんつくせんせいとつんくまえんのくま(フレーベル館/Kindle版)
題名の中に、つんつくせんせいと“つんくまえん”が並ぶだけで、音が跳ねる。言葉の段階で既に楽しい。高楼方子の強みは、こういう音の楽しさが、物語の楽しさに直結しているところだ。
くまが出てくる巻は、安心と緊張が混ざりやすい。くまは可愛いけれど、同時に大きい。近づくには勇気がいる。だからこそ、つんつくせんせいの無邪気さが効く。先生が怖がらないことで、読者も一歩進める。
この巻は、園という場所が持つ“ルール”をゆるめる方向へ話が転がる。ルールがあるから安全だが、ルールがあるせいで窮屈にもなる。その窮屈さを、説教ではなく騒動でほどくのが上手い。
読後に残るのは、笑いと同時に「大丈夫」という感覚だ。失敗しても、うまく言えなくても、変なことが起きても、園は崩れない。むしろ面白くなる。子どもにとっては大きな安心だ。
大人にとっても、子育てや教育の現場で“余白”が必要だと再確認できる。真面目にやるほど固くなるところを、この本は柔らかく叩いてくる。
シリーズをまとめて読むなら、最後にこの巻を置くと気分が上がる。声に出して、タイトルから笑える。
児童文学(長編・読み物)
13. 時計坂の家(福音館書店/単行本)
高楼方子の長編には、「場所」が主役になる瞬間がある。この本も、題名に“家”が入っている時点で、家がただの舞台装置では終わらない予感がある。坂の途中に建つ家には、上り下りの疲れが溜まり、息を整える間が生まれる。そこに物語が住み着く。
長編の良さは、日々の細部が積み重なっていくところだ。派手な事件より、何度も繰り返される階段の音、窓からの光、季節の匂いが、人の感情をゆっくり変える。高楼方子は、その変化を急がない。
子どもは、世界を全部理解できなくても生きている。分からない大人の都合、分からない家の事情、分からない自分の気分。だからこそ、家という器の中で「分からないまま過ごす」時間が必要になる。この本は、その時間を丁寧に描ける作家の強さが出る。
読みながら、読者も“滞在”する感覚になる。読み終わった瞬間に現実へ戻るのではなく、しばらくは家の空気が体に残る。そういう長編だ。
短いシリーズで笑ったあとに読むと、同じ作家が書いているのに、手の触れる場所が違うことに驚く。けれど根っこは同じで、世界の見方を少しずらしてくれる。
子どもにも大人にも、静かな読書をしたい時期がある。その時期に、この家はよく合う。
14. 十一月の扉(福音館書店/単行本)
双眼鏡の中にふいに現れる洋館、十一月荘。入口の偶然がまず美しい。見つけた瞬間に「入りたい」と思ってしまう家がある。怖いのに惹かれる。その気分の矛盾が、物語の最初から立ち上がる。
爽子は、秋の終わりに、二か月だけ下宿生活を送ることになる。期限付きの暮らしは、子どもにとって特別だ。永遠ではないから、細部が濃くなる。食卓の匂い、廊下の音、他人の気配。全部が少しずつ胸に刺さる。
十一月荘にいる大人たちは個性的だが、子どもを“飾り”として扱わない。子どもの感情が揺れることを、揺れるものとして受け止める。そこが救いになる。家族でも学校でも、子どもは役割に押し込められがちだからだ。
この本は、淡い憧れや恋心の描き方も上手い。大きな告白があるわけではないのに、視線の温度だけで心が動く。読者は「分かる」とも「分からない」とも言い切れないまま、その揺れを抱えて読み進める。
さらに、現実と呼応する“もうひとつの物語”が重なる。ここで高楼方子は、ファンタジーに逃げず、ファンタジーを現実の深みに使う。扉は、異世界への逃避ではなく、現実を見る角度の切り替えになる。
読み終えると、十一月という季節が変わる。寒さの前、冬の入口。扉の前で立ち止まってしまう気持ちを、この本は肯定してくれる。
15. 黄色い夏の日(福音館書店/単行本)
「黄色い夏の日」という題名は、明るさと同時に、どこか痛い。夏の黄色は眩しいが、眩しすぎて影を濃くする。この長編は、その“影の濃さ”をちゃんと持っているはずだ、という期待が題名だけで生まれる。
高楼方子の長編は、出来事の派手さより、心の肌触りで読ませる。夏の空気の重さ、汗の気持ち悪さ、夕方の風が少し冷える瞬間。そういう感覚が、登場人物の選択に影を落とす。読者も同じ暑さの中に立たされる。
子どもの夏は長い。けれど、大人になって思い返すと、ある一日だけが異様に鮮明だったりする。この題名は、その“一日”の色を示しているようにも見える。読みながら、自分の夏の記憶が勝手に混ざってくる。
この本を勧めたいのは、元気な子どもだけではない。何かを抱えて夏を迎える子ども、そして、子どもの夏を見守る側の大人だ。夏は楽しい季節でもあり、孤独が目立つ季節でもあるからだ。
読み終えたあと、黄色は派手な色ではなく、薄い膜みたいに心に残る。忘れたはずの気配が、また戻ってくる。そういう長編の力がある。
「長い物語を読み切る」経験にも向く。続きが気になってページを追うだけではなく、ページの中にしばらく居たくなるタイプの長編だ。
16. ねこが見た話(福音館書店/単行本)
のらねこが、うろうろしながら“のぞき見た”話。視点がまずずるい。猫は人間の生活に近いのに、決して完全には混ざらない。だから、観察が鋭くなる。この本は、その鋭さをユーモアに変える。
猫の語り口が独特で、ウィットがある。つまり、怖い話になりそうな場面でも、どこか笑える。読者は緊張と緩みの間で揺らされる。その揺れが、短編(あるいは連作)の気持ちよさを作っている。
「奇妙でユーモラス」と言われる通り、出てくる出来事は変だ。けれど変さが目的ではない。変な出来事を通して、人間の妙な癖や、家族の湿度や、孤独の形が見えてくる。猫は裁かない。ただ見ている。その距離感が救いになる。
子どもは、猫の目線で世界を見られるのが楽しい。大人は、猫の距離で世界を見直せるのが楽しい。どちらも、普段の自分より少しだけ自由になる。
読みどころは、のぞき見の快感に寄りかからず、最後にちゃんと“人の心”に触れるところだ。笑いで終わらず、妙にしんみりもしない。その中間で、胸に残る。
読書が苦手な子にもすすめやすい。長編のような集中力を要求せず、でも短いだけの軽さではない。物語の厚みを、猫が運んでくる。
17. おともださにナリマ小(あかね書房/単行本)
学校という場所は、似ているようで少し違うだけで、急に怖くなる。廊下の幅、呼び方、時間割の気配。子どもは大人より敏感に「違い」を嗅ぐ。この本は、その感覚を物語にする。
迷い込むのは、通っている学校に似ているのに、どこか奇妙な学校だという。つまり、異世界は遠くにあるのではなく、すぐ隣にある。だからこそ読者は怖い。でも、怖さだけで終わらないのが高楼方子で、奇妙さはいつも“考える入口”になる。
子ども同士の関係も、学校の空気も、ここでは単純に整理されない。友だちになりたい気持ちがあるのに、言い方ひとつでこじれる。優しさがあるのに、タイミングを間違える。現実の教室と同じ濁りがある。
だから、この本は「不思議な冒険」として読むだけでなく、「自分の教室」を見直す鏡にもなる。誰がルールを作っているのか。誰が息苦しくなっているのか。自分はどこで黙っているのか。
読み終えると、学校から帰る道の景色が少し変わる。いつもの角が、ほんの少しだけ怪しく見える。その怪しさを怖がるのではなく、面白がれる余白が生まれる。
子どもにとっての“社会”の入り口を、説教せずに描ける長編だ。大人が読んでも、昔の教室の匂いが戻り、少しだけ胸がきゅっとなる。
18. のはらクラブのちいさなおつかい(理論社/単行本)
「のはらクラブ」という言葉には、勝手に風が吹く。大人が用意した活動ではなく、子どもが勝手に集まって勝手に名乗る感じがある。そういう小さな自治があるだけで、物語は強くなる。
おつかいは、子どもにとっての冒険だ。道の途中で話しかけられる怖さもあるし、うまく言えなかったらどうしようという不安もある。でも、おつかいには達成感もある。大人が当たり前にしていることを、子どもが初めて自分の体でやるからだ。
高楼方子の児童文学は、この「初めての体験」を美化しすぎない。緊張は緊張としてある。失敗しそうな不安もある。そのうえで、ちゃんと小さな達成を渡してくれる。だから読者は、自分の初めてを思い出して、少し誇らしくなる。
のはらクラブの面白さは、勝ち負けではなく“つながり”にある。友だちと一緒だからできること、友だちがいるから怖いこと。両方がある。その両方を、きちんと物語の手触りにしている。
読み終えたあと、近所の道が少しだけ広く感じる。大人の視点だと狭い通りが、子どもの視点だと冒険の通路になる。世界の縮尺が変わる本だ。
長編が苦手な子にも手渡しやすい。日常の延長にある冒険なので、入口がやさしい。そのやさしさのまま、読後にちゃんと残る。
絵本(単発)
19. ピースケのいえで(童心社/単行本)
ぬいぐるみの世界は、子どもの秘密基地に近い。昼間はただの玩具で、夜になると急に息をし始める。この本は、その“息”をうまく聞かせる。みどちゃんの家に、のぶちゃんのぬいぐるみ・ピースケがなぜかやってくる。そこから、ぬいぐるみたちのおしゃべりが始まる。
可愛いだけの話ではない。ぬいぐるみは、持ち主の気分を吸っている。だから、べそをかいているピースケには、何かがあったのだと分かる。子どもが本当は言えないことを、ぬいぐるみが代わりに話す。その構造が、すっと心に入る。
みどちゃんとのぶちゃんの関係も良い。友だち同士は、仲がいいだけでは続かない。ちょっとした怒りや、ぷりっとした気分が混ざる。それでも大切にしているものがある。ぬいぐるみを通して、その大切さが見えてくる。
この本の強さは、「いったいどうなるの?」というドキドキが、派手な事件ではなく、感情の揺れから生まれている点だ。返せるのか、仲直りできるのか、言い出せるのか。日常の小さな山場が、ちゃんと山場として立っている。
読み聞かせに向くのは、ぬいぐるみたちの声色を変えられるからでもある。子どもは笑い、でも途中で黙る瞬間がある。その黙りが、きっと刺さっている証拠だ。
大人が読むと、子どもの持ち物を“ただの物”として扱えなくなる。そこには気分が宿っている。気分を大切にすることが、人を大切にすることにつながる。
20. ルゥルゥおはなしして(岩波書店/単行本)
この本は、題名の通り「話して」と頼む声から始まる感じがする。物語の中で語られるのは、冒険やいたずらや、家にたどり着くまでの道のり。けれど読後に残るのは、“語る”という行為そのものの温度だ。
たとえば、海をわたってルゥルゥの家に来るまでの話があり、別のところでは、いたずらにお手上げになる大人の姿もある。つまり、子どもの側だけが語られるのではなく、大人の側の「困っている」もちゃんと出てくる。そこが優しい。
高楼方子は、言葉のやりとりを軽んじない。お話をすることは、情報を伝えることではなく、気分を渡すことだ。嬉しかった、怖かった、腹が立った。そういう気分を、言葉にして相手へ預ける。その預け方が、物語になっている。
読み聞かせだと、聞いている子が「次は?」と言いやすい。物語が続きもののように感じられるからだ。ひとり読みだと、語りの中に出てくる名前や出来事が、じわじわと馴染んでいく。
この本を読むと、日常の会話も少し変わる。説明ではなく、話として話す。今日あったことを、出来事ではなく“おはなし”として言い直す。その言い直しが、子どもの心を守る。
物語の種類そのものが、家庭の中の毛布みたいに働く本だ。寒い日に、言葉を一枚足す感じがある。
21. いたずらおばあさん(理論社/Kindle版)
いたずらは、子どもの専売特許ではない。この本のおばあさんたちは、年齢の数字よりずっと身軽で、だからこそ“いたずら”がよく似合う。洋服研究家が開発した「一枚着るごとに一歳若返るふしぎな服」という発想だけでも、もう勝っている。
若返りは、若さ礼賛の道具として使われがちだ。でもこの物語は、若返りを「もう一度遊ぶため」に使う。遊ぶとは、世界を試すことだ。新しい自分の体で、新しい距離感で、世界を触り直すことだ。
この本の爽快さは、年齢や常識が“壁”にならないところにある。おばあさんだから無理、ではなく、おばあさんだからこそ面白い。読者はそこで、未来の自分に対して少し優しくなる。
一方で、いたずらには必ず責任がついてくる。誰かを困らせる可能性がある。でもこの本は、困らせるだけで終わらず、困り方ごと楽しみに変える。被害と加害の単純な図式ではなく、出来事として受け止め直す。
子どもが読むと「大人もこんなことしていいんだ」と安心する。大人が読むと「自分もまだ遊べる」と思い出す。二方向に効く本だ。
元気を出すための本ではなく、元気がない日でも読める本、という感じがある。笑い方が穏やかで、読後に体が軽い。
一般文芸(児童文学以外)
22. ゆゆのつづき(理論社/単行本)
この本は、子どもの頃の一日が、大人になって突然“昨日のこと”みたいに戻ってくるところから動き出す。五十代の翻訳家・由々が、徹夜明けにピアノのソナチネを弾き、十一歳の夏休み初日の記憶へ引き戻される。記憶の扉の開き方が、現実的で、だからこそ怖い。
懐かしさは、甘いだけではない。戻ってきた記憶は、当時の自分の痛みも一緒に連れてくる。嬉しさと気まずさが混ざる。あの時の自分が好きだった気持ちと、嫌いだった気持ちが混ざる。その混ざりを、物語は無理に分けない。
高楼方子は、子どもの心を描くのが上手い作家だが、この本では“大人の心に残った子ども”を描く。大人になっても、心の奥に十一歳がいる。その十一歳が、ある日ふと顔を出す。そういう瞬間を、丁寧にすくう。
読みどころは、魔法が派手に起きない点だ。魔法は、記憶のつながりとして起きる。偶然の一致や、ふとした手触りが、点と点をつなぐ。読者はそこに、自分の人生の点も勝手につなげてしまう。
読後、過去を美化したくなるのではなく、「過去はまだ続いている」と静かに思う。つづきは、未来へ伸びるのではなく、今の背中に触れている。その感覚が残る。
子どもの本の作家が書いた一般文芸として、入口がやさしい。けれど、やさしいまま深い。夜に読み終えると、部屋の音が少しだけ大きく聞こえる。
23. わたしたちの帽子(フレーベル館/単行本・新装版)
古いビルで暮らすことになった春休み、サキが出会う“帽子”。この設定だけで、時間の匂いがする。古い建物には、使われなかった時間が積もっている。階段を上るだけで、昔の誰かの気配に触れる。その気配が物語になる。
帽子は、さまざまな布が縫い合わされている。寄せ集めは、貧しさの象徴にもなるし、豊かさの象徴にもなる。この本では後者だ。いろんな時間、いろんな人、いろんな気分が縫い合わされ、過去・現在・未来がとけあう。読者は、一本の線ではなく、布の重なりとして時間を見る。
この物語の強さは、冒険が“外”へ広がるのではなく、“時間”へ潜っていくところにある。遠くへ行かなくても、同じ場所の中で、見える層が変わる。子どもが世界を理解していく過程に似ている。昨日まで気づかなかったことが、今日急に見えるようになる。
サキが五年生を前にした春休みというのも絶妙だ。変わる直前の季節。子どもはその時期に、言葉にできない不安を抱える。この本は、その不安を否定せず、帽子という形にして手渡す。不安は“連れていってくれるもの”にもなる。
賞の話をここで一度だけ触れるなら、この作品が長く読み継がれてきた理由は、技巧の派手さではなく、時間の扱いの誠実さにある。読後、古い建物や古い家具を見る目が変わる。そこに積もった時間を、怖がらずに触れたくなる。
関連グッズ・サービス
本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。
幼年童話や児童文学は、気分に合う一冊を探して“少しだけ読む”がやりやすい。気に入ったシリーズの入口を見つけるのにも向く。
長編の空気を途切れさせずに味わいたい時、音声は相性がいい。家事の手を動かしながら、十一月荘の廊下の音を想像できる。
読書ノート(罫線の細いもの)
へんてこもりの“変な言葉”や、まあちゃんの誇らしい言い分をメモすると、日常の会話が少しだけ柔らかくなる。読み終えた直後の一行が、一番効く。
まとめ
高楼方子の本は、笑いと不安を同じ袋に入れて、ちゃんと持ち運べる形にしてくれる。森のことば遊びで肩をほぐし、洋館や古いビルで時間の層に触れ、最後は自分の生活へ戻ってくる。その往復が、読書を“気分の手当て”に変える。
目的別に選ぶなら、次の入り方が合う。
- まず笑いたい:へんてこもり、つんつくせんせい
- 親子で会話を増やしたい:まあちゃん、ピースケのいえで
- 静かに長く浸りたい:十一月の扉、わたしたちの帽子、ゆゆのつづき
気分に合う一冊からでいい。合う入口が多い作家は、それだけで頼りになる。
FAQ
Q. へんてこもりシリーズは、どの順番で読むのがいい?
基本は刊行順が読みやすい。最初の『へんてこもりにいこうよ』で森の手触りに慣れ、次に『コドロボー』『なまえもん』で事件の転がり方を楽しむと、後半の“本の中身が逃げる”“にせものが出る”といったひねりがより効いてくる。途中からでも読めるが、初見の驚きは一作目が一番大きい。
Q. 子どもが怖がりだけど、『おともださにナリマ小』は大丈夫?
怖さの種類が「怪物が出る」ではなく、「日常が少しだけずれる」怖さなので、刺さり方は子どもによって違う。不安を面白がれる子には効く。一方で、学校のこと自体に不安がある時期は、まず『まあちゃん』や『ピースケのいえで』のように安心が強い本から入って、慣れてから手渡すと読みやすい。
Q. 大人が読むなら、どれから入るのがいい?
物語に浸りたいなら『十一月の扉』、記憶と時間のテーマなら『ゆゆのつづき』、時間の層を感じたいなら『わたしたちの帽子』が入口になる。短い時間で気分を変えたいなら『まあちゃんのながいかみ』が強い。短さのわりに、心の姿勢が変わる。






















