高山羽根子の本をどこから読むか迷っている人へ
高山羽根子を初めて読むなら、まずは芥川賞受賞作『首里の馬』から入ると作風の核がつかみやすい。記録、映像、土地、動物、旅、制度の隙間にある気配が、現実のすぐ横からゆっくりこちらを見返してくる作家だ。
この記事では、代表作から初期短編、台湾をめぐる本、動物と世界情勢が交差する長編まで、作品ごとの役割が見えるように整理する。派手な物語よりも、読み終えたあとに日常の見え方が少し変わる本を探している人に向いている。
読む目的別の入り口
- まず高山羽根子の代表作から入りたい人は、1.『首里の馬』から読むといい。資料館、クイズ、宮古馬、遠隔地の孤独が交差し、この作家の輪郭が一冊で見える。
- 短い作品で作風を試したい人は、2.『うどん キツネつきの』と6.『オブジェクタム』が入りやすい。日常の物陰から奇妙なものが顔を出す感覚を、短い呼吸で味わえる。
- 土地や映像、歴史のレイヤーまで深く潜りたい人は、5.『暗闇にレンズ』、7.『パレードのシステム』、10.『パンダ・パシフィカ』へ進むと、作品世界の奥行きが広がる。
高山羽根子とは?
高山羽根子は、1975年富山県生まれの小説家。多摩美術大学で絵画を学び、「うどん キツネつきの」で第1回創元SF短編賞佳作を受賞してデビューした。2016年には「太陽の側の島」で林芙美子文学賞、2020年には「首里の馬」で第163回芥川賞を受賞している。
略歴だけを見ると、SF、純文学、旅、映像、動物、歴史と、作品の置き場が少しつかみにくい作家でもある。けれど読み進めると、中心にある関心はかなり一貫している。誰かが残した記録、使われなくなった道具、映像に映ってしまったもの、地図からこぼれそうな場所。そうした「すでにそこにあるのに、ふだんは見落としているもの」を、物語の側からもう一度照らしていく。
高山作品では、事件が大きく爆発するよりも、世界の見え方が少しずつずれていく。たとえば『首里の馬』では、沖縄の郷土資料館に眠る資料と、遠く離れた場所で働く人たちをつなぐオンラインのクイズがある。『暗闇にレンズ』では、スマホや監視カメラの時代から、幻灯機や映画の歴史へ視線が伸びる。『パンダ・パシフィカ』では、花粉症で匂いを失う女性の日常と、パンダをめぐる国際的な歴史が思いがけず結びつく。
この作家を読む面白さは、「不思議な設定」を消費することではない。むしろ、不思議な設定の向こうにある現実のほうが、読後に濃く見えてくる。資料館に積まれた紙の匂い、夜の街にあるカメラの目、動物園の檻、台湾の湿った路地、誰かがかつて働いていた場所。読み終えたあと、いつもの景色の中に、まだ言葉になっていない層があると気づかされる。
だから、高山羽根子の本は、速く筋を追いたいときよりも、少し立ち止まりたいときに合う。何かを断定してもらいたい日ではなく、自分の見ている世界が本当に一枚だけなのか、そっと疑ってみたい日に読むといい。
高山羽根子のおすすめ本10選
ここでは、代表作、初期短編、映像や記録をめぐる作品、台湾や動物へ広がる本までを、読む流れが見える順に並べた。最初から刊行順で追うよりも、『首里の馬』で作風の核に触れ、そのあと短編と長編を行き来するほうが、つまずきにくい。
後半の作品は、決しておまけではない。むしろ高山羽根子の関心が、土地、制度、映像、動物、歴史へどう広がっていくかを見るための大事な場所だ。
1.『首里の馬』
高山羽根子を一冊だけ読むなら、最初は『首里の馬』がいい。沖縄の古びた郷土資料館で、未名子は中学生のころから資料整理を手伝っている。大人になった彼女は、資料館に通い続けながら、遠く離れた場所で孤独に働く人たちへオンラインでクイズを読み上げる「問読者」という仕事もしている。
この設定だけで、すでに高山作品らしい。資料館にあるのは、誰かが残した紙、写真、民具、言葉、忘れられかけた記録だ。一方で、画面の向こうにいる人たちは、宇宙ステーション、極地、紛争地のシェルターのような場所で働いている。ローカルな資料と、地球の端にいる孤独な誰か。その距離の遠さを、クイズの声が細くつないでいく。
物語の中に迷い込んでくる宮古馬も、単なる象徴として置かれているわけではない。台風の気配、湿った庭、資料館の空気、馬の体温が、未名子の生活に生々しい重さを加える。馬は「不思議な出来事」の中心にいるようでいて、同時に土地の歴史や、そこで暮らしてきた人々の時間を背負っている。読んでいると、動物の身体がそこにあるだけで、資料の文字が急に息をしはじめるような感覚がある。
この小説の強さは、知識や記録を「情報」として扱わないところにある。クイズの問題は正解と不正解に分かれるが、資料館に残されたものは、そんなに簡単には答えにならない。誰が残したのか、何のために保存されたのか、いま誰がそれを読むのか。問いの形をしたものが、物語の中でいくつも積み重なっていく。
未名子は、劇的に成長する主人公ではない。けれど、彼女が黙々と資料に触れ、画面の向こうへ声を送る姿を見ていると、人と人がつながることの最小単位が見えてくる。大きな共感や連帯ではなく、問題を読み、答えを聞き、記録を捨てずに置いておくこと。それだけで、世界から消えそうなものを少しだけ引き留められる。
疲れていて、物語に強い感情を要求されたくないときにも、この本は読みやすい。ただし軽い本ではない。読み終えたあと、部屋の隅にある古い写真や、もう使っていない紙の束を見る目が変わる。代表作としての入り口であり、高山羽根子という作家の「記録することへの信頼と疑い」がもっとも見えやすい一冊だ。
2.『うどん キツネつきの』
『うどん キツネつきの』は、高山羽根子の初期の感触を知るために外せない短編集だ。タイトルだけ見ると、少しゆるい怪異譚や、食べ物をめぐる可愛らしい物語を想像するかもしれない。けれどページを開くと、そこにあるのは、日常の形を保ったまま内部だけがずれているような世界だ。
この本の面白さは、奇想が大げさに登場しないところにある。何かがおかしい。けれど、そのおかしさは誰かの悲鳴や説明で回収されない。いつもの街、いつもの食卓、いつもの人間関係の中に、ちょっとした異物が混ざる。その異物を取り除くのではなく、そこにあるものとして受け取ってしまう人物たちの鈍い反応が、かえって妙に怖い。
表題作の魅力も、怪異を「怖いもの」として処理しない点にある。キツネの気配は、昔話のようでもあり、身体感覚のズレのようでもあり、単なる思い込みのようでもある。読者は、何が起きたのかをはっきり説明してほしくなるが、作品はそこにあまり興味を示さない。むしろ、説明できないものを抱えたまま生活が続いてしまうことのほうを描いている。
初期短編集なので、作品によって温度差はある。端正にまとまった完成品だけを読みたい人には、少しざらついて感じる部分もあるかもしれない。ただ、そのざらつきがいい。後年の作品にある「記録」「映像」「土地」の大きな構造に向かう前に、もっと手前の、日常の床板が一枚だけ浮いているような感覚が残っている。
短い時間で高山作品に触れたい人には、この本が向いている。通勤の電車で一編読む、寝る前に一編読む、という読み方でもいい。ただし、眠る前に読むと、台所や廊下のいつもの影が少し違って見えることがある。はっきり怖いわけではないのに、何かがいる気がする。その加減が、この短編集のいちばんおいしいところだ。
3.『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』
『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』は、記憶と映像と都市が絡み合う短編集だ。表題作では、「私」の中に残っている小さな記憶がいくつも語られる。おばあちゃんの背中の美しさ、下校中の不快な出来事、高校時代にいた話のつまらない男友だち・ニシダ。どれも人生を決定的に変えた大事件として語られるわけではない。けれど、忘れたことにもできない。
そこに、東京を記録する映像作家・イズミが現れる。彼女の撮った映像の中に、ピンクのワンピースでデモの先頭に立つニシダが映っている。過去の知人が、現在の都市の画面に別の姿で現れる。その瞬間、昔の記憶は単なる思い出ではなく、いまの社会の中にまだ接続されているものとして戻ってくる。
この作品で刺さるのは、記憶がきれいに整理されないことへの執念だ。子どものころの嫌な出来事、大人になってから意味が変わってしまった関係、謝罪されても終わらない感情。そうしたものは、人生の物語に都合よく収まらない。加害と被害、悪意と鈍感さ、謝る側と謝られる側のズレが、映像の中で再び露出する。
高山羽根子は、ここで都市を背景としてではなく、記憶を保存し変形する装置として描いている。街頭の映像、デモ、スマホの画面、どこかに残った動画。人は忘れたつもりでも、街のどこかに別の角度から記録が残っているかもしれない。その怖さと救いが、作品の中で分かちがたく混ざっている。
この本は、過去のことを急に思い出してしまう時期に読むと効く。もう終わったはずの出来事が、なぜか今の自分の言葉づかいや身体のこわばりに残っている。そんな感覚がある人には、かなり近いところまで届くはずだ。読み終えたあと、スマホに残した写真や動画を見る目が少し変わる。記録は便利な保存ではなく、時に自分を追いかけてくるものでもある。
4.『居た場所』
『居た場所』は、タイトルそのものがもう一つの問いになっている。人が「居た」とはどういうことなのか。住所があることか、地図に載っていることか、誰かの記憶に残っていることか。物語は、「私」と妻のシャオツイが、かつて彼女が住んでいた海沿いの町をたどる形で進んでいく。
シャオツイは、外国人技能実習生として日本に来て、介護施設で働いていた過去を持つ。その時間は、制度の言葉で説明すれば「労働」や「滞在」になる。けれど本人にとっては、誰かの身体に触れ、匂いを覚え、道を歩き、部屋で眠った生活の時間でもある。その町が、いつの間にか地図の上で輪郭を失っていくように見えるところから、小説は現実と非現実の境目を薄くしていく。
この作品がうまいのは、技能実習生制度を真正面から説明しすぎないことだ。もちろん、その背景は物語の骨格にある。けれど小説が追うのは、制度の大きな名前からこぼれてしまう生活の痕跡だ。誰かが確かに働き、暮らし、移動した場所が、別の人から見ると最初からなかったように扱われる。その不安が、「消えていく町」というイメージに変わる。
読みながら、読者も自分の「居た場所」を思い出すはずだ。もう店名が変わった駅前の喫茶店、取り壊されたアパート、通学路の曲がり角、地図アプリでは別の建物になっている場所。場所は残っているようで、同じ形では残らない。そこにいた自分を証明するものも、案外少ない。
『首里の馬』が記録を残すことの物語だとすれば、『居た場所』は記録からこぼれることの物語だ。社会的なテーマに関心がある人にも読んでほしいが、問題意識だけで読むと、この小説の手触りを取り逃がす。むしろ、昔住んでいた場所のことを急に思い出す夜、地図を眺めながら「ここにいたはずなのに」と感じるようなときに読むと、深いところで噛み合う。
5.『暗闇にレンズ』
『暗闇にレンズ』は、高山羽根子の「見ること」への関心が、もっとも大きく広がった一冊だ。現代の都市には監視カメラがあり、スマホがあり、誰もが撮る側にも撮られる側にもなる。主人公の「私」と親友の「彼女」は、その街を歩きながらレンズを向ける。けれど物語は、現代の撮影文化を語るだけでは終わらない。
ここでレンズは、母、祖母、曾祖母たちの時間へつながっていく。幻灯機、映画、教育、娯楽、戦争、弾圧。映像は美しいものを残すだけでなく、誰かを管理し、選別し、傷つけるためにも使われてきた。見ることは、いつも中立ではない。何を映すか、誰が映されるか、その映像を誰が見るかによって、光は簡単に暴力へ変わる。
この作品は、映像史の知識がなくても読める。ただし、読む側に少し粘りは求められる。時間軸は一本の線でまっすぐ進まないし、現在の少女たちの物語と、過去の女性たちの物語は、暗い部屋に投影される映像のように重なったり離れたりする。わかりやすい謎解きよりも、断片が光った瞬間を拾っていく読み方が合う。
印象に残るのは、レンズを覗く行為の軽さと重さが同時に描かれることだ。スマホで撮ることは、いまではあまりに簡単だ。食べ物、友人、街角、電車の窓、すぐ消える動画。けれどその軽さの背後には、長い映像の歴史がある。誰かの視線が、誰かの身体を固定してきた歴史がある。作品はそのことを、説教ではなく、光と暗闇の配置として読ませてくる。
高山作品に少し慣れてから読むと、かなり面白い。『首里の馬』や『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』で、記録や映像への関心に触れたあとなら、この本の広がりがより見えやすい。写真や動画を撮ることが多い人、あるいは撮られることにどこか居心地の悪さを感じている人には、ふとした場面で刺さるはずだ。
読み終えたあと、街中のカメラや、スマホのレンズの黒い丸が少し気になる。見ることは、ただの確認ではない。見た瞬間に、こちらもまた何かの歴史の中へ入ってしまう。その感覚を残す一冊だ。
6.『オブジェクタム』
『オブジェクタム』を読むと、高山羽根子が人間だけを見ている作家ではないことがよくわかる。ここで前に出てくるのは、家具、道具、置物、どこかから流れてきた品、誰かが残した物体だ。人間の感情を説明するための小道具ではなく、むしろ物のほうが、人間の時間を黙って抱えている。
この本の読みどころは、「物」が記憶のスイッチになるだけではないところだ。ふつうなら、物を見て昔を思い出す、という流れになる。けれど高山作品では、物体はもっと自立している。人が忘れても、捨てても、別の持ち主へ渡っても、物はそこにある。人間の都合とは別の速度で、時間を引き受けてしまう。
だから読んでいると、人物よりも物の輪郭が残ることがある。棚の上に置かれたもの、手のひらで持てるもの、古びた表面、傷、重さ。そうした質感が、物語の中で妙に強く立ち上がる。誰かの過去が語られる場面でも、感情の説明より先に、物の触感が記憶に残る。
『首里の馬』が資料をめぐる小説だとすれば、『オブジェクタム』は、資料になる前の物たちを見ているような本だ。まだ分類されず、名前を貼られず、けれど明らかに何かを背負っている。部屋の隅に置かれたままの箱や、なぜ捨てられないのかわからない古い品を思い出す人もいるだろう。
短編集としては読みやすいが、感情の盛り上がりを求めると少し物足りないかもしれない。その代わり、生活に戻ったあとに効いてくる。机の上のマグカップ、引き出しの奥のチケット、古いキーホルダー。なんでもない物が、急に誰かの時間を抱えたものに見えてくる。高山作品の「物を見る目」を知るには、とてもいい一冊だ。
7.『パレードのシステム』
『パレードのシステム』は、後半で読むほど効いてくる作品だ。美術家として東京で暮らしていた「私」が、祖父の自死をきっかけに故郷へ戻り、さらに台湾へ向かう。祖父はかつて台湾で暮らし、先住民族の世界と関わりながら生きていた。その足跡をたどることは、家族の過去を知ることでもあり、自分の身体がどんな歴史の流れに置かれているのかを知ることでもある。
タイトルの「パレード」は、明るい祝祭だけを意味していない。人の人生は、自分で選んで歩いているように見えて、背後では国家、民族、移動、経済、家族の事情が行進している。気づいたときには、自分もその列の中にいる。前に進んでいるのか、押し流されているのか、見物しているのか参加しているのか、その境目がだんだん曖昧になる。
この作品でいいのは、ルーツ探しを単純な感動物語にしないところだ。祖父の過去をたどれば自分がわかる、というほど話はきれいではない。むしろ、知れば知るほどわからなさが増えていく。台湾の土地、先住民族の文化、祖父の人生、自分の創作。別々に見えていたものが、旅の中で少しずつ重なり、しかし完全には重ならない。
高山羽根子の作品には、土地を「舞台」として消費しない感覚がある。台湾も、異国情緒の飾りではない。そこには誰かが暮らし、誰かが移動し、誰かが見落としてきた歴史がある。旅先の光、湿度、食べ物、人との距離が、祖父の過去と現在の「私」の身体に触れてくる。
家族の来歴を考えたくなる時期に読むと、かなり残る。祖父母がどこで何をしていたのか、自分の名字や土地の記憶がどこから来たのか、普段はあまり意識しないものが急に気になってくる。ただし、答えをもらう本ではない。むしろ、自分の足元にも見えていない列が続いているのだと気づく本だ。
8.『如何様』
『如何様』は、現実の表面と裏面がゆっくり入れ替わるような作品集だ。表題作では、戦後まもない世田谷のアトリエに暮らす画家や、その周囲の人々の生活が描かれる。芸術、仕事、食べること、生き延びること。大きな事件の後の時代に、何かを作りながら暮らす人たちの声が、少し低い温度で響く。
「如何様」という言葉には、いかさま、どのようにも、という複数の響きがある。この作品でも、出来事の意味は一つに固定されない。ある人から見れば正しいことが、別の人から見るとごまかしに見える。誰かの才能が、誰かの生活を支えることもあれば、傷つけることもある。物語は、そのどちらかを選んで読者に差し出さない。
戦後のアトリエという場所も重要だ。美術は高尚なものとしてではなく、生活のすぐそばにある。絵を描く、売る、場所を借りる、人と関わる、食べる。その全部が絡んでいる。芸術で生きることは、美しい理念だけでは済まない。そこには金銭、身体、時代の空気、名前を残す人と残らない人の差がある。
高山羽根子は、ここでも社会の中心から少し外れた場所を見ている。歴史に大きく名前が刻まれる人ではなく、その周辺で動き、支え、消えていく人々のほうへ視線が向く。だから読んでいると、華やかな芸術家の物語というより、アトリエの床に落ちた絵の具、古い空気、誰かが使った道具のほうが残る。
すっきりした読後感ではない。むしろ、何を信じればよかったのか少しわからなくなる。けれど、そのわからなさに意味がある。物事を一つの正しい見方へ回収されることに疲れているとき、この本は合う。誰かを裁く前に、視点が変われば物語の形も変わるのだと、少しだけ呼吸を遅くしてくれる。
9.『おかえり台湾 食べて、見て、知って、感じる 一歩ふみ込む二度目の旅案内』
『おかえり台湾』は、小説ではない。声優の池澤春菜と高山羽根子が案内する、台湾をめぐる旅の本だ。けれど高山作品を読む流れの中に置くと、かなり大事な一冊になる。『パレードのシステム』で台湾という土地に触れたあとに読むと、物語の背景にあった湿度や距離感が、別の角度から立ち上がってくる。
この本は、初めての台湾旅行で有名スポットを効率よく回るための本というより、二度目以降の旅で、もう少し奥へ進みたい人のための案内だ。食べる、歩く、見る、買う。旅の行為そのものは普通なのに、二人の視点が入ることで、店の明かりや道端の匂い、人との距離が急に細かく見えてくる。
旅の本として読むと、情報より先に身体感覚が来る。夜市のざわめき、湯気、甘いものと塩気の混じる匂い、濡れた路地、茶の香り。観光地をチェックしていくのではなく、場所に滞在する時間のほうが中心にある。小説で場所や物の気配に引き寄せられる人なら、この本の読み心地にもすんなり入れるはずだ。
高山羽根子のファンにとって面白いのは、ここにも「土地と記憶」の関心が見えることだ。台湾は、単なる旅先ではない。歩いた場所には歴史があり、食べたものには人の移動や生活がある。小説ではフィクションの奥に隠れていた視線が、この本では旅の文章として表に出てくる。
台湾に行く予定がある人はもちろん、今すぐ旅に出られない人にもいい。仕事や家のことで遠くへ行けない時期に読むと、ページの中だけでも少し呼吸が変わる。高山羽根子の小説を読み続けてきた人にとっては、作家の目が現実の土地をどう歩くのかを知る、周辺作品としての楽しさがある。
10.『パンダ・パシフィカ』
『パンダ・パシフィカ』は、題名だけで判断すると、可愛らしい動物小説のように見える。けれど実際には、パンダという存在を通して、人間が動物をどう見てきたか、どう管理し、保護し、利用し、愛してきたかを問う長編だ。春先に花粉症で鼻が利かなくなるモトコは、副業先の同僚・村崎さんから、自宅で飼っている小動物たちの世話を頼まれる。
村崎さんは職場を辞め、その後モトコのもとへメールを送ってくる。そこには、パンダと人類をめぐる狩猟、飼育、繁殖の歴史が少しずつ書き込まれていく。モトコの日常には、小さな動物の世話がある。村崎さんのメールには、国境を越えるパンダの歴史がある。その二つが、すぐには結びつかない距離を保ったまま、だんだん同じ問題へ近づいていく。
背景には、上野動物園のパンダ・リンリンの死、中国で起きた食品への毒物混入事件、大地震、オリンピックといった現実の出来事が置かれている。ニュースとして見れば、どれも別々の出来事だ。けれどこの小説では、それらが「命をあずかる」という感覚のもとでつながって見えてくる。ひとつのケージの中の小さな命と、国際情勢の中で扱われる命。その落差が、じわじわ読者の足元に迫ってくる。
高山羽根子らしいのは、ここで大きな正義を語らないことだ。動物を守ろう、人間は愚かだ、といった単純な言葉で済ませない。モトコができることは限られている。餌をやる。様子を見る。匂いがわからない身体で、それでも世話をする。村崎さんの旅もまた、まっすぐな救済の物語ではない。世界はあまりに大きく、個人の手はあまりに小さい。
だからこそ、この本はケアについての小説として残る。何かを守ることは、きれいな気持ちだけでは続かない。面倒で、怖くて、責任があり、しかも世界の暴力を止められるわけではない。それでも目の前の命を見捨てないこと。その小ささを、小さいまま書いているところに力がある。
動物が好きな人だけでなく、ニュースの大きさに疲れている人にも向いている。遠くの事件に心を動かされても、自分には何もできないと感じる日がある。そういうとき、この小説は「世界を救え」とは言わない。代わりに、今日あずかったものを、今日の範囲で見ておくことの重さを渡してくる。後半に置いたのは、作家の関心が個人の記憶から、動物、政治、ケアの問題へ広がるところまで見届けられる本だからだ。
関連グッズ・サービス
高山羽根子の本は、まとめて一気に読むより、数日置いてから戻るほうが合うことが多い。読書環境を少し整えておくと、作品の細部を拾いやすくなる。
文芸、SF、旅の本を行き来したい人には使いやすい。高山作品そのものだけでなく、近い作家や台湾、映像、動物をめぐる本へ広げると、作品同士の距離が見えてくる。
移動中や散歩中に、街の音と重ねて物語を受け取りたい人に向いている。特に映像や都市を扱う作品は、耳で聴く時間と相性がいい。
電子書籍リーダー
長編と短編を行き来するなら、軽い読書端末があると便利だ。寝る前に一章だけ読む、旅先で『おかえり台湾』を開く、という使い方がしやすい。
台湾茶と茶器のセット
『おかえり台湾』や『パレードのシステム』を読んだあとには、台湾茶の香りがあると余韻が生活に戻りやすい。湯気を待つ時間が、作品の中の移動速度と合う。
パンダモチーフのマグカップ
『パンダ・パシフィカ』を読んだあと、机の上に小さな動物のしるしがあると、作品の問いが少しだけ日常に残る。広告っぽく選ぶより、普段使いできるものを一つで十分だ。
まとめ
高山羽根子の作品は、強い起承転結で読者を引っぱるというより、読み終えたあとに現実の表面を少し変える。資料館の紙、スマホのレンズ、地図から薄れていく町、台湾の湿度、パンダをめぐる歴史。作品ごとに扱うものは違うが、どれも「見えているのに、まだ見ていなかったもの」へ読者を連れていく。
最初に読むなら、まず『首里の馬』がいい。高山作品の代表作として入りやすく、記録、土地、孤独、動物という核がそろっている。そのあと短編で作風の幅を見たいなら『うどん キツネつきの』、記憶と都市の痛みへ進むなら『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』へ移ると自然だ。
少し慣れてきたら、『暗闇にレンズ』で「見ること」の歴史へ、『パレードのシステム』で土地とルーツへ、最後に『パンダ・パシフィカ』で命をあずかることの重さへ進むと、作家の関心の広がりがよくわかる。
軽く読める日もあれば、少し重く感じる日もある作家だ。だが、自分の見ている世界が少し平板になっていると感じるとき、高山羽根子の本は、目の前の風景にもう一枚の層を戻してくれる。
FAQ
高山羽根子の本は、どれから読むのがいい?
迷ったら『首里の馬』から読むのがいい。芥川賞受賞作であり、資料館、クイズ、宮古馬、遠くで働く人たちという要素を通して、高山羽根子の作風がつかみやすい。短編から試したい人は『うどん キツネつきの』も向いている。いきなり『暗闇にレンズ』や『パンダ・パシフィカ』へ進むと、構成やテーマの広がりに少し戸惑うかもしれないので、代表作か短編集で呼吸をつかんでから読むと入りやすい。
高山羽根子はSF作家として読めばいい?
SF的な奇想や、現実の隣に別の層がある感覚はたしかに強い。ただ、高山羽根子の作品は、ジャンル小説としての仕掛けだけで読むと少し取りこぼす。資料、映像、土地、物、動物などを通して、現実そのものの見え方をずらしていく作家だ。SF、純文学、幻想小説、旅の文章の境目をゆっくり歩いているような読み心地なので、分類よりも「何を見直させられるか」に注目すると楽しみやすい。
読みやすい作品と、少し難しい作品はどれ?
読みやすさで選ぶなら、『首里の馬』『うどん キツネつきの』『オブジェクタム』が入りやすい。短い単位で読める作品や、中心の設定がつかみやすい作品から始めるといい。少し集中力がいるのは『暗闇にレンズ』『パレードのシステム』『パンダ・パシフィカ』あたりだ。映像史、土地の記憶、動物と国際情勢のように、複数の層が重なっていくため、時間のある夜や休日に読むほうが合う。













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