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【飯野和好おすすめ絵本・児童書27冊】「ねぎぼうずのあさたろう」から味わう【作品一覧】

飯野和好の絵本は、ページをめくるたびに声が出る。啖呵と間合い、筆の勢いと人情が同じ場所で鳴るからだ。作品一覧として眺めると、笑いの芯にある「ひとり立ち」と「赦し」が何度も姿を変えて現れる。

 

 

飯野和好という語り口

飯野和好の世界は、昔話の語り口と、芝居のせりふ回しと、子どもの遊びが同じ鍋で煮えている。どこか懐かしいのに、言葉の運びがやけに新しい。息が詰まらない。むしろ、息を吸う前に笑ってしまう。

線は太く、顔は丸く、動きは大きい。けれど荒っぽいだけではなく、ふとした目の描き分けや、立ち止まる一瞬の間で、登場人物の心が透ける。大仰な場面ほど、照れないで描く。その潔さが読み手の照れもほどいてしまう。

そして飯野作品の核は「旅」だ。家を出る。仲間と別れる。追われる。追う。肩書きや年齢や強さが、道の上で入れ替わる。笑いは派手だが、芯はいつも、暮らしの手触りに戻ってくる。

おすすめ本

1. ねぎぼうずのあさたろう その1(日本傑作絵本シリーズ)

このシリーズの始まりは、正義感の熱さが先に立つ。畑の匂いがするような、色白で丸顔の“ねぎぼうず”が、目の前の乱暴を見過ごせない。小さな村の揉め事が、いつの間にか旅立ちの火種になる。

いいのは、善悪が説教にならないところだ。悪いことをした相手をこらしめる、そのやり方が妙に台所寄りで、粉や汁の刺激が活躍する。正義が「清潔」ではなく、生活の道具として描かれるから、子どもは笑いながら納得する。

旅姿になると、物語は時代劇の呼吸を吸い込む。三度笠、合羽、峠の茶屋。決まり文句めいた景色が出るのに、飯野の筆が入ると、舞台の板がきしむ音まで聞こえてくる。

あさたろうは強い。けれど強さを誇らない。勝ったあとに“気まずさ”のようなものが残る瞬間があって、その曖昧さが次のページを呼ぶ。勝ち続ける主人公ではなく、進みながら調子が変わる主人公だ。

読み聞かせで強いのは、声が勝手に立つ点にある。啖呵があり、合いの手があり、間がある。読み手の調子が上がると、聞き手の表情も上がる。その循環が自然に起きる。

一方で、笑いだけに見せかけて「村を出る」という重さを隠さない。家から離れたときの、背中の寒さ。振り返っても戻れない感じ。そこが薄く効いているから、痛快さが軽くならない。

シリーズの入口として、まずこれ一冊でいい。時代劇ごっこが始まるだけでなく、「乱暴を止める」と「旅に出る」が同じ線でつながる感覚が、読後に残る。

2. ねぎぼうずのあさたろう その2(日本傑作絵本シリーズ)

二冊目は、旅が“続く”ことそのものの面白さが前に出る。強い相手や怪しい気配はもちろん出てくるが、焦点は「道中の気分」だ。今日の空気、峠の気配、茶屋のざわつき。そういうものが先に立つ。

シリーズの良さは、主人公が孤独になりきらないところにもある。旅はひとりでも、人の声がまとわりつく。誰かの噂、誰かの忠告、誰かの見物。飯野の画面は群衆がうるさい。だから旅が生き物になる。

この巻では、あさたろうの“調子”が読みどころだ。怒りで突っ走る日もあれば、ふっと肩の力が抜ける瞬間もある。子どもはそこを敏感に拾う。強い子が弱くなる瞬間は、安心でもあるからだ。

言葉遊びも増える。野菜の名前がそのまま人物の気配になり、食べ物の手触りが、場面の質感になる。笑いが「言葉の味」から立ち上がるので、声に出したときの快感が強い。

二冊目でシリーズが固くなるかというと逆で、むしろ自由になる。あさたろうが“旅の型”を覚えた分だけ、作者が遊べる。読み手も遊べる。ここから先を追う気持ちが自然に湧く。

気分が沈んでいる日に読むと、背中が少し軽くなるタイプの絵本だ。元気を押しつけないのに、元気が戻ってくる。その加減がうまい。

3. ねぎぼうずのあさたろう その5 いそぎたび そばがきげんえもん(日本傑作絵本シリーズ)

副題がつく巻は、ひとつの“山場”がくっきりする。急ぐ旅。追われる気配。息が上がる道中。ページの余白までせかせかして見えるのに、飯野の線が太いから、慌ただしさが怖さに変わらない。

ここで効いてくるのが「食」の感覚だ。そばがきという言葉だけで、湯気と腹持ちが想像できる。あさたろうの旅は、戦いだけでなく、腹を満たすこと、眠ること、転ぶことの連続で、そこが妙にリアルだ。

急ぐと、人は余計なものを落とす。言い訳も、見栄も、時には優しさも。そういう“削れ方”が、子どもにもわかる形で出る。急いでいるのに、ふと立ち止まる一瞬がある。その一瞬が、この巻の体温になる。

そばがきげんえもんという存在は、名前の時点で勝っている。けれど飯野作品の面白さは、名前の笑いだけで終わらず、出会いのあとに小さな人情が残るところだ。笑いのあとに、ちょっとだけ胸が温かい。

読み聞かせでは、速度を上げたくなる巻だ。早口になっても画面が追いついてくる。むしろ早口のほうが似合う。聞き手の体も前のめりになる。

シリーズを途中から読むなら、こういう副題つきの巻が入口になりやすい。一本勝負の勢いがあり、読み終えたあとに「ほかはどんな旅だったの」と聞かれやすい。

4. ねぎぼうずのあさたろう その8 にんにくにきち はしる!(日本傑作絵本シリーズ)

副題と勢いのある句点が、最初から走っている。にんにくにきち、という音がまず強い。声に出すと、口の中に匂いが立つ。飯野作品は、音と匂いが結びつく瞬間がたまにあって、この巻はその代表だ。

走る、という動詞は絵本にとって特別だ。ページをめくる速度と一致するからだ。走る場面は、読み手がめくる。めくるから走る。ここでは物語と身体がぴたりと重なる。

あさたろうの世界は、正面衝突の笑いだけでなく、追いかけっこの笑いがある。追う側の必死、追われる側の余裕、途中で入る横槍。その全部が、線の太さでまとめられていく。

にきちという存在が、ただの賑やかしで終わらないのも良い。走るということは、怖いということでもある。転ぶかもしれない。追いつかれるかもしれない。その薄い怖さが、笑いの背後にいる。

シリーズ後半の魅力は、世界が“広がりすぎない”ところだ。巻が増えると設定が膨らみがちだが、ここでは旅の肌触りが変わらない。峠の風、茶屋の声、道の土。そこに毎回、別の味が足される。

子どもが「もう一回」と言いやすいのは、走る巻だ。速さは反復に向く。繰り返し読んで、言葉のリズムを体に入れる本としても強い。

5. くろずみ小太郎旅日記 その1 おろち退治の巻

ねぎぼうずが時代劇なら、こちらは忍術の旅だ。くろずみ小太郎が峠で異変を嗅ぎ、巨大なおろちに飲み込まれる。入り口から不穏なのに、画面の豪快さが恐怖を笑いへ押し戻す。

飲み込まれた“中”をどう描くかで、絵本の胆力がわかる。暗闇は怖い。けれど飯野の暗闇は、怖がらせるための暗闇ではなく、手品の舞台みたいな暗闇だ。次の一手があることを、線が示している。

小太郎は忍術を使う。だが忍術が「すごい技」で終わらず、子どもの遊びに近い。袋から何か出す。投げる。転がる。そういう動きが、読者の身体感覚に近いから、見ていて気持ちがいい。

敵のおろちは、怪物なのに、どこか間抜けでもある。強そうで、油断もする。そのバランスが、昔話の怪物らしい。怖さは残しつつ、勝ち目が見える。子どもにとってちょうどいい緊張だ。

このシリーズは一冊が短い分、読み聞かせの“強打者”になる。寝る前に一発。移動の合間に一発。短くても濃い。物語の火花だけを取り出して渡してくる。

笑いの中心に「油断」があるのも面白い。強い者ほど油断する。自信があるほど足をすくわれる。説教ではなく、出来事としてそれが起きるから、読後にじわっと残る。

6. くろずみ小太郎旅日記 その3 ぐうたら三国志の巻

三国志という大看板を“ぐうたら”に寄せる時点で勝負がついている。歴史の大河を、怠け心のほうへ引っ張る。その引っ張り方が乱暴ではなく、むしろ人間の本音に忠実だと感じる。

飯野の絵は、英雄を英雄のままにしない。かっこいい顔を描けるのに、わざと崩す。崩したときに出るのが、情けなさではなく、親しみだ。英雄が“隣の人”に見えてくる。

ぐうたらは悪徳ではなく、生活の防御でもある。頑張りすぎない。張り切りすぎない。そういう姿勢が、子どもにとっては救いになる。いつも全力でいなくていいと、体で理解できる。

歴史ものにありがちな説明は最小で、笑いの流れが先に立つ。だから詳しくなくても読める。むしろ「知らないのに面白い」という体験が、あとから歴史に近づく足場になる。

この巻は、親が読んで先に笑うタイプでもある。子どもは絵で笑い、大人は言葉のねじれで笑う。笑いが二層になっていると、同じ本が家の中で長生きする。

7. 小さな山神スズナ姫(小さなスズナ姫)

こちらは飯野が“挿絵”として支える物語だが、絵の存在感は物語の骨格に直結している。小さいけれど気が強い山神の姫が、一人立ちを望む。願いはわがままに見えて、実は切実だ。

三百年という時間が出てくると、普通は遠い話になる。けれどこの物語は、子どもの日常感覚に降りてくる。「子ども扱いされたくない」「でも認められたい」という、誰でも知っている痛みが中心にあるからだ。

飯野の絵が効くのは、自然のスケールだ。山の大きさ、木の密度、風の通り道。そこに姫が立つと、背伸びの必死さがそのまま見える。言葉で説明しなくても、画面が心理を運ぶ。

親子で読むと、視点が割れる。子どもは姫に寄り、大人は父である山神の不器用さに寄る。どちらが正しいではなく、どちらも譲れない。そこが長編の読み応えになる。

物語の優しさは、勝利で終わらないところにある。勝ったから終わりではなく、関係が少しずつ組み替わっていく。その組み替わりの最中に、読者の心もほどけていく。

飯野和好の“痛快”とは別の、落ち着いた熱が味わえる一冊だ。笑いの量は控えめでも、読後に残る強さがある。

8. 妖怪図鑑(単行本絵本)

妖怪を怖がるためではなく、知るために開く本だ。河童や鬼といった代表的な存在を中心に、解説や豆知識、民話の要素も絡めて、ページが“図鑑”として立つ。

飯野の妖怪は、ただの怪異ではなく、土地の気配を背負っている。湿った川、暗い山、荒い海。妖怪がいる場所が、生活の場所と地続きに見える。怖さは環境の匂いから来る。

図鑑形式の良さは、読み方を選べるところだ。最初から通読してもいいし、気になった顔から拾ってもいい。子どもは拾い読みが上手いから、この形がよく合う。

「怖い」と「面白い」が同居するのも妖怪の魅力だが、この本はその同居をきれいに保つ。笑わせすぎない。怖がらせすぎない。ほどよい距離で“正体”に近づく。

夏休みの夜に読むと、窓の外が少しだけ変わって見える。音がしたとき、ただの風かもしれないし、何かかもしれない。その揺れが楽しい。怖さの受け止め方を練習できる本でもある。

親にとっても便利だ。昔話や民話へつなげやすい。ここから「この妖怪が出る話、聞いたことある?」と広げられる。

9. おならうた(谷川俊太郎 作/飯野和好 絵)

言葉が先に踊り、絵があとから追い越してくる。わらべうたを土台にしたリズムがあり、短い音の反復が、読み手の口を勝手に動かす。

おならという題材は下品に傾きやすいのに、ここでは“想像力の競技”になる。状況が変わるたびに音が変わり、表情が変わる。笑いは音の種類より、場面の発明から生まれている。

飯野の絵は、笑わせ方が露骨ではない。むしろ真顔で描いて、読者が勝手に笑うように仕向ける。真面目に描けば描くほど可笑しい、という古い喜劇の型がここにある。

読み聞かせで強いのは、子どもが参加しやすい点だ。反復があるから、途中から声を重ねられる。恥ずかしさが先に来る子も、繰り返しているうちに抜けていく。

家庭の本棚で長生きするのは、こういう“短い幸福”の本だ。疲れた日でも開ける。ページ数ではなく、笑いの密度で体がほどける。

谷川俊太郎の言葉の切れ味と、飯野和好の体当たりの絵がぶつかって、最後に軽くなる。その軽さが、ちゃんと上品だ。

10. 国生み イザナギ イザナミ(日本の神話)

“はじまり”の物語は、抽象的になりやすい。だがこの絵本は、神話の壮大さを保ったまま、手触りのある場面として読ませる。二柱の神が結び、国を生み、やがて別れが訪れる。

神話は残酷さも抱える。生と死、清さと穢れ、愛と断絶。その重さを、子どもに“丸投げ”しないで描くのが難しいが、ここでは絵の迫力がまず受け皿になる。怖さはある。でも画面が支えるから見られる。

飯野の筆は、神々を人間に寄せすぎない。かといって遠ざけすぎもしない。神としての異様さを保ちつつ、夫婦の温度が見える。その両立が、この題材の肝だ。

読み方としては、最初は“絵の本”として開くのがいい。筋を理解しようとしすぎず、場面の大きさを浴びる。二回目で言葉が追いつく。三回目で、別れの苦さが残る。

昔話や古事記に触れる前段としても強い。知識の入口ではなく、感覚の入口になる。神話が「遠い勉強」ではなく、「怖くて面白い物語」だと体が覚える。

ねぎぼうずのあさたろう 続巻(その3〜その9)

11. ねぎぼうずのあさたろう その3(日本傑作絵本シリーズ)

三巻目は、シリーズの“呼吸”が体に入ってくる時期だ。峠、茶屋、怪しい影。お決まりが来るとわかっているのに、来るのが嬉しい。落語の噺を聞くときの楽しさに近い。

あさたろうの痛快さは、勝つことより、勝ち方の工夫にある。工夫が増えるほど、読者の頭も柔らかくなる。強さが腕力だけでない、と自然にわかる巻が続くのがシリーズの強みだ。

読み聞かせでは、間を遊べる。セリフの前に一拍置く。顔を見せてから言う。そういう小さな演出が効くようになる。

12. ねぎぼうずのあさたろう その4(日本傑作絵本シリーズ)

四巻目あたりになると、敵役や脇役の味が濃くなる。主人公ひとりで回すのではなく、場の騒がしさで回る。飯野和好の“群れの描写”が気持ちよく効いてくる。

旅の途中で出会う言葉のクセ、視線のクセ、立ち姿のクセ。そういう細部が積み重なると、シリーズ全体が「道の記憶」になる。読み終えたあと、どこかの峠を通った気分が残る。

13. ねぎぼうずのあさたろう その6 みそだまのでんごろうのわるだくみ(日本傑作絵本シリーズ)

“わるだくみ”という言葉が、もう愉快だ。悪役が悪役として立つほど、主人公の正義が光るのではなく、場が賑わう。飯野作品では、悪は物語の燃料であり、同時に笑いの材料だ。

みそだまという食の手触りが、悪だくみの粘りに重なる。こういう連想の仕掛けがあるから、子どもは言葉を覚える速度が上がる。味の記憶で言葉が残る。

正義と悪のぶつかり合いが、最終的に“暮らし”に着地するところが好きだ。勝って終わりではなく、今日をどう終えるかに戻ってくる。

14. ねぎぼうずのあさたろう その7(日本傑作絵本シリーズ)

七巻目は、シリーズの厚みが見える巻として読める。最初の一冊で立った世界が、ただ続いているのではなく、積み重なっている。旅は進むほど、背中に荷物が増える。笑いの影も少し濃くなる。

だからこそ、あさたろうの一言が効く。軽口のようでいて、長い旅の疲れが滲む。子どもは全部を理解しない。でも雰囲気は受け取る。その受け取り方が、読書の体力になる。

15. ねぎぼうずのあさたろう その9(日本傑作絵本シリーズ)

九巻目まで来ると、シリーズは“帰る場所”になる。新しい出来事を読むというより、この世界に戻ってくる感覚がある。お決まりの景色が安心になり、その上で新しい笑いが乗ってくる。

長く続くシリーズの良さは、読み手の成長と並走できることだ。幼い頃はただ面白い。少し大きくなると人情が見える。さらに後で読み返すと、旅の寂しさが見える。九巻目は、その“読み返しの価値”が濃い。

くろずみ小太郎旅日記 続巻

16. くろずみ小太郎旅日記 その2 さるくんさらわれるの巻

さらわれる、という出来事は、それだけで緊張を作る。だが飯野の世界では、緊張がすぐに笑いの形へ変形する。助ける側が完璧ではない。助けられる側もただの被害者ではない。そこが楽しい。

短い物語の中で、状況がくるくる回る。くろずみ小太郎のシリーズは、テンポの良さが最大の魅力で、集中力が長く続かない子にも手渡しやすい。

17. くろずみ小太郎旅日記 その5 吸血たがめ婆の恐怖の巻

題名だけで強い。吸血、たがめ、婆。怖い要素が三段重ねなのに、言葉の並びが妙に可笑しい。飯野作品では、怖さは「言葉の肌触り」から始まることが多い。

恐怖の巻と銘打っても、読み終えると妙にさっぱりする。怖がらせたままにしない。最後に必ず、笑いか、抜け道か、肩の力が抜ける瞬間がある。その手際がいい。

18. くろずみ小太郎旅日記 その6 花見はひとり占めの巻

花見という題材は、騒がしさと寂しさを同時に連れてくる。ひとり占め、と言われると、欲張りにも聞こえるし、孤独にも聞こえる。その二重性が、絵本の余韻になる。

くろずみ小太郎の旅は、怪異だけではなく、季節の匂いも連れてくる。花の下のざわめき、酔いの熱、夜風の冷え。短い中に季節の気配が入ると、一冊が記憶に残りやすい。

小さなスズナ姫 続巻

19. スズナ沼の大ナマズ(小さなスズナ姫)

沼と大ナマズ。水の気配が立つ題材は、飯野の絵と相性がいい。湿り、ぬめり、重さ。そういう感触を、線の勢いで押し切らず、ちゃんと残すからだ。

スズナ姫の物語は、成長譚でありながら、毎回「自分の居場所」を問う。沼のように底が見えないものに向き合うとき、勇気は綺麗な形では出てこない。怖がりながら進む。その姿が、読者の背中を支える。

絵本・児童書(単巻)

20. わんぱくえほん(日本の絵本)

“わんぱく”という言葉は、褒め言葉にも叱り言葉にもなる。この本の面白さは、その両方を抱えたまま進むところにある。元気で、迷惑で、でも愛しい。その矛盾がちゃんと描かれる。

飯野和好の子どもは、いい子に整列しない。転ぶし、やりすぎるし、言い返す。だから、読む子どもは安心する。自分もここにいていい、と思える。

21. ハのハの小天狗(イメージの森)

小天狗という存在は、可愛さと不気味さの境目にいる。飯野の描く“境目”は、どちらかに寄せずに揺らす。怖いのに笑える。笑えるのに少し怖い。その揺れが癖になる。

天狗ものは説教臭くなりがちだが、飯野の画面はまず遊びから入る。遊んでいるうちに、いつの間にか「自分のクセ」みたいなものに気づく。気づかせ方が上手い。

22. つぎのかたどうぞ(おひさまのほん)

旅一座の新座員オーディションという設定が、まず楽しい。名乗りの言葉、芸の披露、審査の目。次々に人が現れては去っていく、その“回転”が絵本の快感になる。

登場する名前や役どころが、とにかく粋だ。言葉遊びの洪水なのに、置いていかれない。むしろ置いていかれても楽しい。わからない部分が、後で効いてくる笑いになる。

そして途中から、人情の匂いが立つ。かつて一座を離れた者が戻ってくる。許すか許さないか。その場の空気が変わる瞬間が、舞台の照明みたいに見える。

飯野作品の「赦し」は、綺麗事ではない。簡単に許せない気持ちを残したまま、それでも前へ進む。その前進を、芝居の熱気で押し出す。

読み聞かせでは、声色を変えたくなる本だ。役が多いから、読み手が遊べる。遊べるから、場が温まる。家族でも教室でも強い。

23. つぎのかたどうぞ しおきちくんのたびにっき(おひさまのほん)

同じ看板を掲げた“もう一つの入口”として読める。旅日記という言葉がつくと、出来事の連なりが前に出る。つまり、日々の積み重ねの味が濃くなる。

飯野の旅は、派手な事件だけで成り立たない。道の途中の小さな出来事が、あとから効く。旅日記形式だと、その小ささが生きる。派手さを期待しすぎないほうが、面白さが増す。

24. あくび

一匹のあくびから始まり、次々とうつっていく。筋は単純なのに、単純だからこそ、読むと本当にあくびが移る。反復の力が、そのまま身体反応を呼ぶ絵本だ。

あくびは退屈の印ではなく、連鎖の遊びになる。誰かが口を開ける。その形が面白い。次が来るとわかっているのに、来るたびに笑う。そういう反復の快楽がある。

読み聞かせの場だと、最初は照れていても、最後にはみんな口を開ける。笑いながら、呼吸が揃う。集団の空気がゆるむ。その効果が実用的ですらある。

25. 八助の寺子屋日記 そのニ話(学校がもっとすきになるシリーズ)

寺子屋という舞台は、「教わる」より「暮らす」に近い。勉強は生活の中にあり、からかいも、失敗も、助け合いも同じ場所で起きる。飯野の絵は、そういう雑多な場の空気に強い。

学校が苦手な子には、特に効く。ここでは正しさが一方通行ではない。先生も子どもも、間違える。間違えたあとに、どう居直るか、どう折り合うかが描かれる。

26. ぼくとお山と羊のセーター

題名だけで、寒さと温かさが同時に来る。山の空気、羊毛の手触り、セーターの重み。飯野の線は太いのに、触感の表現がうまいから、読んでいると指先が温かくなる。

子どもの目線で「山」という大きな存在に向き合うと、世界のサイズが変わる。自分が小さくなる怖さと、景色に包まれる安心が同時に来る。その同時が、物語の奥行きになる。

27. ぼくのおじいさん

“おじいさん”を描く本は多いが、飯野の絵が入ると、記憶の匂いが強くなる。古い家の音、道具の重さ、言葉の間。おじいさんという存在が、家族の中心ではなく、生活の背骨として立つ。

別れや老いを、涙に寄せすぎないのがいい。寂しさはある。でも、暮らしが続く感じが残る。読み終えてからも、ふとした瞬間に思い出す本になる。

関連グッズ・サービス

本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。

紙で揃えるのもいいが、シリーズが長いと置き場が悩ましい。読み返しの頻度が高い本ほど、手に取りやすい形が強い。

Kindle Unlimited

声に出して面白い飯野作品は、読み手の調子で印象が変わる。耳で浴びると、言葉のリズムが体に残りやすい。

Audible

まとめ

飯野和好をまとめて読むと、笑いの型が見えてくる。啖呵で押し切り、言葉遊びで転がし、最後に人情で着地する。その着地が軽すぎないから、読み終えたあとに生活へ戻れる。

目的別に選ぶなら、こんな入り方が合う。

  • まず一冊で爆発したい:ねぎぼうずのあさたろう その1、くろずみ小太郎旅日記 その1
  • 家族で声を出して笑いたい:おならうた、あくび
  • 少し長めに物語へ浸りたい:小さな山神スズナ姫
  • 怖さと面白さを同時に味わいたい:妖怪図鑑、国生み イザナギ イザナミ

気に入った一冊が見つかったら、同じシリーズを続けて読んでみるといい。笑いの奥の温度が、じわじわ分厚くなる。

FAQ

Q1. 「ねぎぼうずのあさたろう」は途中の巻から読んでも大丈夫だろうか

大丈夫だ。各巻はその巻だけでも痛快に転がるように作られていて、細かな経緯を知らなくても笑いの筋に乗れる。迷うなら副題つきの巻(その5、その8)から入って、気に入ったらその1へ戻る読み方も合う。

Q2. 飯野和好の絵が濃く感じる子には、どれが読みやすいだろうか

短くて反復が気持ちいい『あくび』は入りやすい。物語の理解より先に、声とリズムで楽しめるからだ。長編なら『小さな山神スズナ姫』が、絵の勢いと物語の流れが噛み合っていて落ち着いて読める。

Q3. 怖がりでも妖怪や神話の本は読めるだろうか

読める。怖さを消すのではなく、怖さの手前に「面白い」を置ける本を選ぶといい。『妖怪図鑑』は図鑑形式で距離を取れるし、『国生み イザナギ イザナミ』は迫力がある分、親が一緒に読むと安心して入れる。

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