阿部和重を読むと、日常の足場がふっと薄くなる。世界は同じままなのに、見え方だけが更新される。その感触を入口から長編のど真ん中まで、代表作を軸に20冊でつないだ。気分で拾っても、順に辿っても、読後の現実が少しだけ違って見えるはずだ。
- 阿部和重という作家
- 初期代表作(まず入口を作る)
- 神町トリロジー(長編のど真ん中)
- 単発長編・中編(受賞作から実験作まで)
- 大型エンタメ長編(文庫2分冊)
- 短編集・小説集(長編とは別の切れ味)
- 評論・エッセイ(小説の外側で思想を掴む)
- 関連グッズ・サービス
- まとめ
- FAQ
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阿部和重という作家
阿部和重の文章は、出来事の派手さより、視線の移動が先に心臓へ来る。誰かが見ている、というより、見られている側の皮膚感覚まで書き込まれる。ページをめくるほど、読者は「理解している位置」からずらされ、同じ場面を別角度で踏み直すことになる。
長編では、土地の歴史や権力、噂や情報が絡み、物語が巨大化する。その一方で、短編やエッセイでは、場の温度の差や、言葉の配置の不穏さが前に出る。作風の入口は複数あるが、どこから入っても、最後に残るのは「現実の見え方が変わった」という手触りだ。
初期代表作(まず入口を作る)
1.アメリカの夜 インディヴィジュアル・プロジェクション 阿部和重初期代表作1(講談社/文庫)
この一冊の強さは、物語を追わせる前に、読者の体内の「映像の切り替えスイッチ」を押してくるところにある。場面は安定しているようでいて、視線の角度が少しずつ狂う。誰の現実を、どの距離で見ているのかが、読みながら揺れる。
人物の輪郭は、説明で固められない。むしろ、言葉の選び方や沈黙の置き方で、じわじわ立ち上がる。だから読み手は、断定しきれない感情を抱えたまま、次のページへ押し出される。
この「押し出し方」が軽快ではなく鋭い。ページが進むほど、現実が別の層へ接続される感触が濃くなる。日常の床板の下に、もう一枚の床がある、と気づくような怖さだ。
ただ怖いだけでは終わらないのも肝で、場面の切り替えが速いほど、逆に一つ一つの瞬間がくっきり残る。読み終えてから、街の光や人の声が、少しだけ過剰に具体的に聞こえる日がある。
阿部和重の入口を一冊で作りたいなら、ここがいい。長編に行く前の助走としても、単独での打撃としても成立する。物語の整頓よりスリルを選びたい読者に向く。
読み方のコツは、筋を早く理解しようとしすぎないことだ。場面の照明が変わる瞬間だけを拾うつもりで進めると、あとから全体がつながる。その遅れて来る納得が、妙に気持ち悪く、妙に癖になる。
紙のページを閉じたあと、ふだん見慣れた景色が「撮影されたもの」みたいに感じることがある。その違和感を面白がれるなら、この作家は合う。
神町トリロジー(長編のど真ん中)
2.シンセミア(上)(講談社/文庫)
上巻は、架空の土地に「地図」が生えていく感触から始まる。歴史の断片、家の事情、噂の回路、権力の癖。情報が増えるほど、世界は整理されるどころか、余計に複雑になる。
面白いのは、その複雑さが設定の誇示で終わらない点だ。登場人物が多くても、読者の関心は「人間が何を信じるか」に戻される。誰が正しいかではなく、誰がどんな仕方で世界を見ているかが残る。
土地の物語は、そこで暮らす人の身体へ染み込む。だから、事件や出来事が起きる前から、空気に圧がある。読む側は、まだ何も起きていないのに、息が詰まる。
上巻はとくに、読者の倫理と好奇心を同時に試してくる。知りたい、でも知りたくない。覗き込むほど、自分の視線の汚さも見える。そういう読みの痛みが、静かに積もる。
長編に腰を据える快感は、ここでちゃんと得られる。ページが厚いからではなく、世界が厚いからだ。読み終えて、まだ序章にいるのに、すでに土地の匂いがする。
読書の進め方は、人物名を完璧に覚えるより、「この場面の温度」を覚えるほうがいい。寒いのか、湿っているのか、妙に明るいのか。温度だけは、嘘をつかない。
上巻は「増えていく」巻だ。増えるものは情報だけではない。読者の中の疑いも増える。その疑いの増殖が、このシリーズの醍醐味になる。
上巻を閉じた瞬間に、下巻へ行きたくなる。行きたくなるのに、怖い。その矛盾が、この作家の長編の真ん中にある。
3.シンセミア(下)(講談社/文庫)
下巻に入ると、世界はさらに拡大するのに、読者の足場はむしろ削られていく。上巻で作られた「確からしさ」が、だんだん怪しくなる。説明の増加で理解が固まるのではなく、理解の外側へ押し出される。
この後半の怖さは、答えを出して安心させないところにある。起きていることの輪郭は見えているのに、どこかで「見えた」と言い切れない。視線がずれるたび、同じ出来事が別の意味を帯びる。
土地の歴史と現在の結び目は、ほどけない。ほどけないからこそ、人はそれを語ってしまう。語りが増えるほど、真実は遠のく。そんな循環が、物語のエンジンになる。
読後に残るのは、整理された理解より、現実側の見え方の変化だ。たとえば人の噂話が、ただの雑談ではなく「権力の運び方」に見えるようになる。そういう小さな変化が、じわじわ残る。
この巻は、読みながら何度も「自分は何を信じてページをめくっているのか」を問われる。信じたいから読むのか、疑いたいから読むのか。問いは露骨ではないのに、逃げ道がない。
長編を読み切った満足はある。ただ、拍手で終わる満足ではない。深い水から上がってきたあと、肺にまだ水の味が残るような満足だ。
神町の感触を身体に入れるなら、ここまでが第一段階になる。次に『ピストルズ』へ行くと、同じ土地が「暴力と情報」の速度で別の顔を見せる。
一気読みが一番効くのは間違いないが、途中で休憩を挟むなら、休憩中に現実の街を少し歩くといい。戻ってきたときのページの湿度が変わる。
4.ピストルズ(上)(講談社/文庫)
上巻は、暴力と情報が絡み合う速度で、読む側の呼吸を奪ってくる。倫理や正義を言葉で片づけず、場面の圧で押し切る。だから読み手は、考えるより先に反応してしまう。
この反応のさせ方が、ただ刺激的なのではなく不穏だ。刺激は消えるが、不穏は残る。読後に残るのは「面白かった」より、「いま見ている現実も同じ構造かもしれない」という嫌な予感になる。
登場人物は、善悪のラベルで収まらない。善いことをしているつもりの人が、一番危ない顔をする。悪いことをしている人が、妙に生活臭い。生活臭が、暴力を現実に固定する。
ページの密度は高いのに、読みが止まらない。止まらないのは、物語が巧いからだけではなく、読者が「見たくないもの」を見せられているからだと思う。見たくないほど目が離せない。
長編が好きで、簡単な救いを求めない人に合う。逆に、安心して眠りたい夜には向かない。読みながら頭が冴えてしまい、眠りが薄くなる。
ただ、薄くなる眠りの代わりに、現実の輪郭が濃くなる。翌朝のニュースや、電車の広告が、妙に刺さる。情報の受け取り方が少し変わる。
上巻の終わり方は、きれいではない。だからこそ、下巻へ手が伸びる。物語に引っ張られるというより、いったん掴まれた手首が離れない感じだ。
ここまで来ると、神町トリロジーは「土地の物語」だけではなく、読者の神経の物語になる。あなたの神経がどれだけ耐えられるか、試される。
5.ピストルズ(下)(講談社/文庫)
下巻は、積み上がった因果が、終盤で別の角度から見え直していく。説明で整頓して終えるのではなく、現実の不気味さを残したまま決着をつける。決着という言葉自体が、どこか信用できなくなる。
読み終えたあと、「自分は何を信じて読んでいたのか」を問い直される。信じていたのは人物か、語りか、世界のルールか。問いは意地悪ではなく、ただ冷たい。
そして、その冷たさは、読者の感情を殺すためではない。感情を、もっと生々しい形で残すためにある。人間の動きが、正しさではなく衝動で説明されるから、むしろ納得してしまう。
終盤に向かうほど、読む側は「読みの姿勢」を変えさせられる。情報を整理して理解する読みから、場の圧を受け止める読みへ。理解するより、耐える。
耐えた先に、奇妙な爽快がある。救いの爽快ではなく、嘘が剥がれた爽快だ。気持ちよくはないが、目が覚める。
このシリーズをここまで追った人ほど、終わってほしくない気分になるかもしれない。終わってほしくないのに、終わらせられる。その強制感が、現実の感触と似ている。
読後は、すぐ別の本へ逃げないほうがいい。数時間でもいいので、余韻を放置してみる。放置している間に、日常の細部が変な角度で光り出す。
次に行くなら『オーガ(ニ)ズム』が自然だが、いったん『ABC戦争』で短い射程の刃物感を挟むのもいい。体温が変わる。
6.オーガ(ニ)ズム(上)(文藝春秋/文庫)
完結編の上巻は、陰謀や諜報の匂いをまといながらも、読み味が軽い娯楽へ傾かない。むしろ、歴史と現在の結び目を凝視する視線が強い。スリルの裏に、土地の時間が重なっている。
ここまで積み上げた神町の「厚み」が効いて、どんな動きも薄いイベントにならない。誰かが動くと、家が動き、噂が動き、過去が動く。個人のドラマが、土地の仕組みに引きずられる。
読者は、物語の続きものを追いかける快感を得ながら、同時に不穏さも飲まされる。快感の後味が悪い。悪いのに、もう一口欲しくなる。
文章は、視線のスピードが速い。速いのに、目を逸らせない。情報の奔流に乗せられつつ、ふとした一行で急に立ち止まらされる。その立ち止まり方がうまい。
長編を読み慣れていない人には、ここから入るのは勧めない。入口としては『アメリカの夜』か『ニッポニアニッポン』のほうが安全だ。ここは、すでに神町の空気を吸った人が行く場所になる。
ただ、神町を追いかける快感という意味では、この上巻がいちばん「続きが気になる」作りでもある。続きが気になるのに、続きが怖い。その怖さが、読書の体温を上げる。
上巻を読み終えたら、間を空けずに下巻へ行くのがいい。世界の湿度が冷める前に、一気に決着まで運ぶほうが効く。
読む時間帯は夜が合う。外の暗さと本の不穏さが重なると、ページの圧が増す。増しすぎる人は、昼に読むといい。
7.オーガ(ニ)ズム(下)(文藝春秋/文庫)
完結巻は、収束していくというより、「収束のさせ方」そのものを疑わせる。物語が終わることで安心する仕掛けを、わざと壊してくる。読者は「終わった」と言いたいのに、言えない。
事態が片づいた気分にさせないまま、世界の輪郭だけが異様に鮮明になる。霧が晴れたのに、見える景色が良いとは限らない。むしろ、見えたことが怖い。
ここまで読んだ人には、神町が「架空の土地」ではなく、現実の縮図に感じられる瞬間があるはずだ。噂が真実を作り、真実が噂に飲まれる。誰かが得をし、誰かが失う。その運動が止まらない。
読後の余韻は、カタルシスではなく、静かな疲労に近い。疲労の奥に、妙な覚醒が残る。目が冴えるのに、心は重い。そういう状態を作るのが上手い。
この巻を読んで、神町トリロジーを「好き」と言える人は、たぶん現実の不快さを直視できる人だ。直視できるからこそ、言葉が必要になる。その言葉を、ここで受け取る。
在庫が戻るタイミングが来たら、上巻から続けて一気読みがいちばん効く。分断されると、湿度が切れてしまう。湿度が切れると、怖さも薄まる。
読み終えたあと、すぐ別の長編へ行くと、神町の余韻が消える。数日置いてから『Deluxe Edition』へ行くと、別角度から同じ世界を見直せる。
完結は「終わり」ではなく「視線の置き場の変更」だと思う。その変更が、しばらく続く。
単発長編・中編(受賞作から実験作まで)
8.グランド・フィナーレ(講談社/文庫)
第132回芥川賞を受賞。
この本は、読者の感情を甘やかさない。状況の冷たさを、最後まで通す。だから読んでいる間、どこかで「救い」を探してしまうが、その探し方自体が試される。
長編の密度はありつつ、神町ほどの巨大な地図に頼らない。むしろ、個の状況が狭いほど、その狭さの中で世界が歪む。逃げ場がないとき、人はどう振る舞うのか。そこが剥き出しになる。
文章の強さは、善悪の感情を整理しないところにある。読者が「これは悪い」と言い切った瞬間、別の角度が差し込む。言い切れないから、読み続けてしまう。
読後に残るのは、気持ちよさではなく、体温の低い余韻だ。余韻は、胸に沈む。沈むのに、そこから目が離せない。沈んだものが、現実の底とつながっているからだ。
重い読み味を求める人に向く。逆に、軽い気分転換にはならない。ただ、重さの中にだけある手触りを求める人には、確かな一冊になる。
読んでいる最中は、少しずつ疲れる。しかし、その疲れ方が嘘ではない。疲れるほど、読むことが現実へ触れている感じがする。
読み終えたあと、しばらく無音が欲しくなる。音楽をかけるなら、歌詞が少ないものがいい。言葉を増やすと、余韻が散る。
この作家の「最後に気持ちよくさせない」強さを知りたいなら、ここで確かめられる。
9.ABC戦争(新潮社/文庫)
短めの射程で、現代の暴力と情報の結びつきを刺してくる。読み進むほど安心できる足場が減り、読者は「わかっているつもり」の場所からずらされる。小さい刃で、深く切る。
スピードはあるのに、軽くはない。スピードがあるからこそ、止まれない怖さが出る。止まれないまま、判断だけが迫ってくる。現実の焦りと同じ形だ。
この本の嫌なところは、嫌な話を「遠い世界」に閉じ込めない点にある。ページの向こうの出来事として眺めさせず、読者の生活へにじませる。にじんだ瞬間、怖さが増す。
長編トリロジーの前に、阿部和重の刃物感を試す入口としてもいい。逆に、トリロジーを読み切ったあとに戻ってくると、巨大な世界を短い距離で撃ち抜く技術が見える。
読みながら、何度か笑えない笑いが出る人もいると思う。笑いが出るのに、喉が乾く。その乾きが、この本の体温だ。
読み終えたあと、街の標識や広告が、妙に攻撃的に見える瞬間がある。情報は中立ではない、と身体で理解する。理解したくないのに理解してしまう。
疲れているときに読むと、現実の嫌な部分と響き合ってしんどい。逆に、頭が冴えているときに読むと、しんどさが鋭い快感に変わる。
一冊で作風を掴むなら『アメリカの夜』、刃の感触だけ先に欲しいならこの本、という棲み分けができる。
10.公爵夫人邸の午後のパーティー(講談社/文庫)
短編の面白さが、事件の大きさではなく「場の温度のズレ」にある。上品な場面ほど、不穏が映える。会話は丁寧なのに、なぜか息がしづらい。笑顔が、薄い膜に見えてくる。
短い単位で読めるのに、読み終わりで終わらない。余韻が続くのは、場面のズレが、読者の生活に持ち帰れる種類のズレだからだ。人間関係の違和感に、似た形をしている。
阿部和重の悪意やユーモアが、ここでは刃の出方を変える。長編の圧ではなく、短編の針で刺す。針は小さいのに、刺された場所がじわじわ痛む。
読みながら、登場人物の言葉をそのまま信じられない自分に気づくはずだ。その疑いが、読む楽しさになる。疑うのに、読むことをやめない。そこが癖になる。
長編に入る体力がない日にも向く。ただし、軽くはない。短いから軽い、ではなく、短いから濃い。濃さが、短時間で効く。
読み方としては、一気に全部より、一篇ずつ間を空けて読むのも合う。間を空けると、日常の中で似たズレを拾ってしまい、次の篇が妙に刺さる。
上品な言葉の裏にあるものを読む練習にもなる。現実でも、上品な言葉ほど危ないときがある。その危なさが、ここでは美しく整っている。
阿部和重の全体像を掴むなら、長編だけでなく短編も挟んだほうがいい。この本は、その挟み方としてちょうどいい位置にある。
11.クエーサーと13番目の柱(講談社/単行本)
物語の安定を優先せず、場面の見え方そのものを変化させながら進む。読者の理解が追いついた瞬間に、足場が外れる。外されて、落ちるのではなく、別の床へ着地する。その床が不安定だ。
中長編らしい濃度があり、読みながら何度も立ち止まることになる。立ち止まるのは、難解だからというより、読み手の癖が暴かれるからだ。いつもなら見逃すところで、目が止まる。
阿部和重の「現実がふいに別のレイヤーへ切り替わる感触」が、より露骨に前に出る。露骨なのに、説明しない。説明しないからこそ、感触だけが残る。
この本が合うのは、筋の快感より、読みの感触の変化を求める人だと思う。ページをめくること自体が、実験に参加しているような気分になる。
読む時間帯は、集中できる時間がいい。疲れていると、外された足場のあとに戻るのがしんどい。逆に、集中できると、外されることが快感に変わる。
読後は、すぐに感想をまとめないほうがいい。言葉にすると、逃げ道ができてしまう。逃げずにしばらく置くと、別の日にふいに腑に落ちる。
この作家の実験性に興味があるなら、ここは手触りが強い。『□(しかく)』へ行く前の助走としてもいい。
読み終えて残るのは、理解より、視界の揺れだ。その揺れを面白がれる人には、忘れがたい一冊になる。
12.□(しかく)(リトルモア/単行本)
これは「物語を楽しむ」より、「読む」という行為そのものを試す本だ。筋や人物に乗って快楽を得る読みが、途中で通用しなくなる。その瞬間、読者は自分の読み方を意識させられる。
文章の配置や反復が、感覚を揺らす。揺らすのは内容だけではなく、読む速度や呼吸までだ。いつものテンポで読めない。読めないことが、狙いになっている。
怖さは、怪談的な怖さではなく、足元が抜ける怖さだ。抜けたあと、落ちるのではなく、別の次元に立っている感じがする。その感じが、慣れない。
阿部和重を追いかけてきて、さらに奥まで潜りたい人向けになる。入口としては勧めない。入口でこれを掴むと、「何が起きているのか」以前に「どう読めばいいのか」で詰まる。
ただ、詰まったまま進むと、詰まりが変質する。詰まりが、興奮に変わることがある。理解できないのに面白い、という種類の興奮だ。
読むときは、ページ数を目標にしないほうがいい。読めるだけ読む。読めないところで止める。止めることで、次に開いたときの景色が変わる。
読後に残るのは「わかった」ではない。「わからないまま残った何か」だ。その何かが、数日後に別の形で戻ってくる。
この本が好きだと言えるなら、あなたは読書の快楽を、筋以外の場所にも持っている。その感覚を確認する一冊になる。
13.キャプテンサンダーボルト 新装版(新潮社/文庫)
伊坂幸太郎との共著で、追走劇の娯楽性が前に出る。テンポがよく、次を読ませる力が強い。阿部和重を「重い長編の人」と思っている読者にとって、入口の角度が変わる。
ただ、軽さで終わらない。事件の連鎖が進むほど、不穏な設定が尾を引く。笑える場面があっても、どこかで「笑っていいのか」が引っかかる。その引っかかりが、共著でも消えていない。
読みやすさがある分、読者は油断する。油断したところに、現実の嫌な匂いが混じる。混じった瞬間、物語がただのエンタメではなくなる。
阿部和重の核心を掴みたいなら単独作がいいが、エンタメ側から試したいならちょうどいい。長編に入る前の気分転換にもなる。
共著の面白さは、作家同士の得意技がぶつかって火花が散るところにある。文章の勢いが、場面ごとに色を変える。その色の変わり方が、読書のリズムになる。
読後は、スッと終われるようで終われない。不穏が残る。残る不穏が、阿部和重側の影として効いている。
一冊で満足したら、次は『ブラック・チェンバー・ミュージック』へ行くと、エンタメの速度のまま、より重い現実へ入っていける。
読みやすいからこそ、夜に一気に読んでしまう人が多いと思う。読み終えたあとの静けさが、少しだけ寂しい。
大型エンタメ長編(文庫2分冊)
14.ブラック・チェンバー・ミュージック(上)(毎日新聞出版/文庫)
落ちぶれた映画監督に課される極秘任務から走り出す。設定だけ聞くと、派手で軽いスリルに寄りそうだが、実際はもっと粘る。任務の緊張の裏で、人間の弱さや執着がべったり残る。
上巻の推進力は強い。ページをめくらせる速度がある。その速度が、読者の判断を追い越していく。追い越された瞬間、読者は「自分が何に乗っているのか」を確認したくなる。
映画というモチーフが効いていて、場面が「撮られている」感じを帯びる。視線の切り替えが、編集のように働く。読者はカメラの位置をずらされ、同じ場面を違う意味で見させられる。
難解さより速度を優先したい人に合う。とはいえ、速度の中に棘がある。棘は、読み終えたあとに効く。読み終えたあとに効く棘が、この作家らしい。
上巻は、人物の関係が形になる前のざらつきが面白い。信用できないまま進む。信用できないのに、進む。そういう関係が、ページを前へ押す。
読むときは、余裕のある日にしたい。速度があるぶん、途中で止めると戻りづらい。止めるなら、章の切れ目を選ぶほうがいい。
上巻の終わりで、次の巻へ行く手が止まらないはずだ。止まらないのは、謎のせいだけではない。世界の危うさが、こちらの体温に移るからだ。
この二分冊は、読書の没入をちゃんとくれる。その没入が、現実逃避ではなく現実への接続として残る。
15.ブラック・チェンバー・ミュージック(下)(毎日新聞出版/文庫)
下巻は、任務の輪郭が見えてくるほど、人物の関係も世界の危うさも増幅する。説明で安心させるのではなく、危険が危険のまま進む。安全地帯を作らないから、読み手の神経がずっと張っている。
この巻の面白さは、スリルが「外側の出来事」だけで終わらないところにある。外側が動くほど、内側がむき出しになる。誰が何を守り、何を捨てるのかが、派手な場面の裏で進む。
上巻で掴んだテンポを落とさず、読了まで運ぶ構成が強い。読み終えた瞬間、息を吐く。吐いたあとに、どこかで息が冷たくなる。
冷たくなるのは、物語が終わっても世界が終わらないからだ。終わらない世界が、読者の現実と重なる。重なった瞬間、フィクションが現実に貼りつく。
読後の余韻は、気持ちいいとは言いづらい。ただ、読んだことが残る。残るという意味では、強い。忘れにくい傷みがある。
この二巻を読み切ったあと、重い長編が続くのがしんどければ、短編集の『Deluxe Edition』へ移るといい。短いのに、余韻の濃さは引けを取らない。
逆に、神町へ戻るなら『シンセミア』の上巻を少しだけ読み返すのもいい。視線が変わった状態で読むと、地図の見え方が違う。
娯楽として読んだはずなのに、最後に残るのは「世界の危うさ」だ。その残り方が、この作品の勝ち方になる。
短編集・小説集(長編とは別の切れ味)
16.Deluxe Edition(文藝春秋/文庫)
短編なのに、終わった感で閉じない。むしろ、終わり方が次の現実へ押し返してくる。12の小説集という形が、そのまま読み味になる。読者は、一篇ごとに別のスイッチを押される。
短編は、長編の圧と違って、狭い場所で刺す。刺したあとに逃げない。刺したまま置いていく。置いていかれたものが、読者の生活の中で勝手に動き出す。
この本が合うのは、読後に余韻が欲しい人だ。余韻が欲しいというより、余韻が残ってしまう本が好きな人だ。読み終えても、視界の端に何かがいる感じが続く。
長編を読んだあとだと、短編の軽さに救われるかと思いきや、救われない。軽さがあるのに、重い。短いからこそ、余計な説明がなく、重さが直に来る。
一気読みもできるが、疲れる。疲れるのに、やめられない。やめられないのは、答えが欲しいからではなく、問いの形が美しいからだと思う。
読んでいるとき、ふと窓の外の光が気になる瞬間がある。現実が本の続きを持っているように感じる。その感覚が、この短編集の面白さだ。
阿部和重の長編が苦手な人でも、短編なら入れる可能性がある。ただし、安心できる読みではない。安心より、刺さりが欲しい人向けになる。
読み終えたあと、どの篇が好きだったかを無理に決めなくていい。決めなくても、勝手に残る篇がある。その勝手さが、読書の喜びになる。
評論・エッセイ(小説の外側で思想を掴む)
17.幼少の帝国 成熟を拒否する日本人(新潮社/単行本)
小説の作風を支える視線の鋭さを、直接言葉で確かめたい人に向く。アンチエイジングを鍵に、戦後日本の未成熟性を追う。素材が広いのに、議論が空中に逃げないのは、観察が具体だからだ。
美容整形や技術、文化現象まで、対象が身近なので、読者は「自分の生活」から考え始められる。大きな主張を掲げるより、手元の現象を丁寧に拾う。その拾い方が、阿部和重の小説の拾い方と同じだと気づく。
読んでいて気持ちよくはない。気持ちよくないのは、語り口が過激だからではなく、目を逸らせない対象を選んでいるからだ。逸らせないまま、読者は考えさせられる。
小説を読む体力がないときに、こっちから入るのもありだと思う。ただし、評論だから楽、ではない。別の疲れ方をする。
疲れ方が違う分、小説に戻ったときの見え方が変わる。たとえば神町の「噂」や「権力」の回路が、より現実に近いものとして見えてくる。
読むときは、ノートを取るより、まず身体の反応を見たほうがいい。嫌だと思った箇所こそ、たぶんこの本の中心にある。嫌だと思ったまま、ページを進める。
読後に残るのは、答えではなく、問いの癖だ。その癖が、しばらく生活に居座る。居座る問いほど、読む価値がある。
小説と評論を行き来すると、作家の「目」が見える。この本は、その目の輪郭を濃くしてくれる。
18.映画覚書 Vol.1(文藝春秋/単行本)
映画をどう見ているのか、その見方が文章として立ち上がる。評論と対談で縦横に走り回り、参照が広いのに視点がぶれない。だから読者は、作品名を全部知らなくても、見方の筋肉だけは鍛えられる。
映画の話をしているのに、読後に残るのは現実の見方だ。カメラの位置、編集の切り替え、画面の外側。そういう概念が、日常の観察へ流れ込む。
阿部和重の文章が「映像の見方」と直結しているのを体で理解できる。小説の場面転換が鋭い理由が、ここで腑に落ちることがある。腑に落ちると、小説を読み返したくなる。
対談が入ることで、思考が独り言に閉じないのもいい。意見がぶつかったときの反射が見える。反射の癖が、そのまま文章の癖になる。
映画好きなら当然楽しめるが、映画に詳しくなくても読む意味はある。むしろ、映画に詳しくない人ほど、「見方を持つ」ことの面白さがわかりやすい。
読むと、観たくなる映画が増える。ただし、観たくなるのは名作リストではなく、変な角度で気になる作品だ。気になるという感情が、読書の余韻として残る。
小説の補助教材というより、別の入口だと思う。ここから入って、作家の長編へ行くと、場面の切り替えの快感が増す。
読後に映画を一本観るなら、派手なものより、静かなものが合う。静かな画面ほど、この本の視線がよく映る。
19.アブストラクトなゆーわく(マガジンハウス/単行本)
日常の対象を容赦なく言葉で解体していく私生活エッセイだ。題材は軽そうに見えるのに、目つきが軽くない。小説の「悪い夢みたいなリアルさ」と同じ回路が、身近な話題にも出る。
エッセイの魅力は、文体の速度を「現実の近さ」で味わえるところにある。長編のように世界へ没入するのではなく、生活の机の上に、そのまま視線が落ちてくる。近いから、刺さる。
読んでいて笑える箇所もあるが、笑いがどこかで冷える。冷えるのは、言葉が対象を可愛がらないからだ。可愛がらない代わりに、対象の形を正確に出す。
長編の前に、著者の脳内の回路を軽めに覗きたい人に向く。軽めと言っても、快い散歩ではない。散歩中に急に崖を見る、みたいな軽さだ。
エッセイは、作家の「素」が出ると思いがちだが、この本は素というより「刃の研ぎ方」が見える。刃がどこで研がれているのかがわかると、小説の切れ味も納得できる。
読むと、自分の生活の見方も変わる。ふだん見逃している細部が、急に立ち上がる。立ち上がった細部が、少しだけ不快で、少しだけ面白い。
重い長編の合間に挟むと、息継ぎになる。ただし、息継ぎの水が冷たい。冷たいから、目が覚める。
読み終えたあと、何かを言い切りたくなるかもしれない。でも言い切らないほうがいい。言い切らないまま残すほうが、この作家の文章に近い。
20.無情の世界 ニッポニアニッポン 阿部和重初期代表作2(講談社/文庫)
「無情」という言葉を、ただ冷たいと読み替えると外れる。ここで書かれているのは、情が存在しているのに、それでも容赦なく進んでしまう現実の速度だ。優しさも悪意も、同じ場で同じ呼吸で並ぶ。
日本という輪郭が、熱っぽい肯定や、わかりやすい否定で描かれない。むしろ、観察の粘りで輪郭だけが浮く。読者は、その輪郭に触れた瞬間、手が汚れる感じを覚えるかもしれない。
読みやすさで甘やかしてこないのに、目が離せない。言葉が硬いというより、言葉が「言い逃れ」を許さない。ここで示されるのは、立派な主張より、逃げられない感触だ。
読後に軽くはならない。けれど、引っかかりが残る。しかも、その引っかかりが、数日後に別の形で立ち上がる。ニュースの見方や、街で耳にする会話の温度が、少しだけ変わる。
阿部和重の作品一覧のなかでも、初期の核に触れる一冊だと思う。長編の巨大さではなく、刃の薄さで刺してくる。薄い刃ほど、傷は長持ちする。
読むタイミングとしては、疲れている日に無理に読むより、頭が冴えている夜が合う。眠気が来る前に、ページがこちらの神経を拾い上げてしまうからだ。
読み終えたとき、気持ちよく締まらない。その締まらなさが、現実と同じだと気づく。そこまで含めて、この本の強さになる。
次にどれへ行くか迷うなら、このあと『シンセミア』へ進むと、観察の執念が「土地の歴史」に拡大していく流れが見える。
関連グッズ・サービス
本を読んだ後の学びを生活に根づかせるには、生活に取り入れやすいツールやサービスを組み合わせると効果が高まる。
紙でも電子でも、阿部和重は「同じ場面を読み返す」ことで効き方が増す。手元に置いて、気になる段落だけ戻れる環境があると、余韻の残り方が変わる。
評論や対談は、声で追うと意外にテンポが掴みやすい。話の熱量と間が見えると、文章で読んだときとは別の理解が残る。
付箋(フィルムタイプ)
神町トリロジーのような長編は、地図が増えるほど「戻り読み」が効く。付箋で場面の温度が変わった箇所だけ印を残すと、再読が急に楽しくなる。
まとめ
阿部和重は、物語で気持ちよく着地させるより、現実の見え方を少しだけ変えて帰してくる作家だ。入口の短い刃から、神町トリロジーの巨大な圧まで、どこにも「安心」がない。その代わり、読んだことが残る。
- まず作風を一冊で掴みたい:『アメリカの夜 インディヴィジュアル・プロジェクション』
- 長編の没入と不穏を浴びたい:『シンセミア(上)(下)』→『ピストルズ(上)(下)』→『オーガ(ニ)ズム(上)(下)』
- 短い切れ味で試したい:『ABC戦争』や『公爵夫人邸の午後のパーティー』
- 小説の外側から目の鋭さを掴みたい:『幼少の帝国』や『映画覚書 Vol.1』
読み終えたあと、すぐ答えをまとめず、違和感を少しだけ生活に置いてみるといい。その置かれた違和感が、次の一冊へ手を伸ばす理由になる。
FAQ
Q1. いきなり神町トリロジーから入っても大丈夫か
読めるが、入口としては体力が要る。人物も情報も多く、世界の地図が増えるほど足場が削られる。まず『アメリカの夜』か『ニッポニアニッポン』で「視線がずれる感じ」を掴んでから入ると、長編の不穏さが恐怖ではなく快感に変わりやすい。
Q2. 読後にしんどくなりやすい。読み方の工夫はあるか
一気に読まず、章の切れ目で意識的に休むのが効く。休憩中はスマホで情報を増やすより、短い散歩や無音がいい。情報を足すと不穏が増幅する。余韻を薄めるのではなく、いったん落ち着かせてから戻るほうが、読みの圧に耐えやすい。
Q3. 小説より先に評論やエッセイから入るのはありか
ありだ。『映画覚書 Vol.1』や『幼少の帝国』は、作家の目の動きが直接見える。ただし、小説の「場面の圧」を体で知りたいなら、やはり小説が早い。評論から入って気になったら、『ABC戦争』のような短い射程で刃を確かめて、長編へ行く流れが作りやすい。


















