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【服部真里子おすすめ本3選】代表歌集から短歌教室まで読む現代短歌の入口

服部真里子の本を読むなら、まずは第一歌集『行け広野へと』で言葉の速度に触れ、次に『遠くの敵や硝子を』で視線の変化を追うと入りやすい。短歌を自分でも作ってみたい人は、『あなたとわたしの短歌教室』を並べて読むと、読者としての目も少し変わる。

この記事では、歌集2冊と入門書1冊を、役割が重ならないように整理する。現代短歌に慣れていなくても、いきなり全部を理解しようとしなくていい。まずは一首がこちらの時間を止める、その感覚から入ればいい。

 

 

読む目的別の入り口

服部真里子を読む入口は、ひとつではない。歌人としての核から入りたいのか、現代短歌の緊張感に触れたいのか、自分でも短歌を作ってみたいのかで、最初に開く本は変わる。

服部真里子とは──風景と身体のあいだで世界をずらす歌人

服部真里子は1987年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学第一文学部在学中に早稲田短歌会へ入り、短歌を本格的に作り始めた歌人だ。高校時代には演劇に打ち込んでいたという背景もあり、その短歌には、舞台上の人物を見るような距離感と、身体の近くで起きている感覚が同時にある。

短歌というと、心情をきれいに圧縮する形式だと思われがちだ。けれど服部真里子の歌を読むと、感情はむしろ一首の中で割れたり、反射したり、遠くの風景へ飛ばされたりする。プール、地下駅、洗濯物、犬、舟、雪、硝子。モチーフは身近なのに、そこに置かれた瞬間、いつもの景色が少し危うくなる。

第一歌集『行け広野へと』は、19歳から27歳までの時間を含んだデビュー歌集であり、歌壇賞受賞作「湖と引力」も収められている。第21回日本歌人クラブ新人賞、第59回現代歌人協会賞を受賞し、服部真里子の名を現代短歌の読者に強く印象づけた一冊だ。

第二歌集『遠くの敵や硝子を』では、第一歌集の広さがそのまま続くのではなく、視線がより硬く、より遠くまで届く。世界のニュース、敵という言葉、硝子の冷たさ、愛や復讐の気配。自分の感情を歌うというより、世界のほうが震えていて、その震えに身体が巻き込まれていくような読み心地がある。

そして『あなたとわたしの短歌教室』は、歌集とは別の角度から服部真里子に触れられる本だ。短歌の作り方を、才能や感性だけに預けず、課題と視点の変え方として伝えてくれる。読む人として歌集に向き合ったあと、自分の一首を書いてみる。そんな往復ができるところに、この3冊を並べる意味がある。

服部真里子おすすめ本3選

1. 行け広野へと(本阿弥書店)

『行け広野へと』は、服部真里子を読むなら最初に置きたい一冊だ。理由は単純で、この歌集には服部短歌の入口になるものがほとんど入っているからだ。都市の中の若い身体、恋愛の熱と冷え、遠くまで開けてしまう風景、説明されないまま残される感情。その全部が、まだ固まりきらない強さを持っている。

19歳から27歳までの8年間に作られた短歌を収めた第一歌集で、歌壇賞受賞作「湖と引力」も含まれる。年齢だけを見れば、若さの記録として読みたくなるかもしれない。けれど、読んでみると単なる青春の歌集ではない。むしろ、青春という言葉では雑にまとめられてしまう身体の不安定さ、世界との距離の取りづらさが、かなり冷えた目で書かれている。

この歌集で印象に残るのは、風景がいつも少し広すぎることだ。プールを見下ろす場所、雪の街、舟、湖、天体、風の通る空間。どれも目に浮かぶのに、そこに立っている主体は安心していない。広い場所に出れば自由になる、という明るい物語ではない。広さは、ときに自分の輪郭を薄くする。風にさらされるように、自分の感情まで遠くへ持っていかれる。

タイトルにある「広野」は、そのまま解放のイメージとして読める一方で、どこにも隠れられない場所としても読める。若いころ、未来が開けていると言われるほど、かえって足元が心細くなることがある。行きたい場所があるのに、そこへ向かう自分の姿だけがうまく想像できない。『行け広野へと』は、そういう時期の光の強さと影の濃さを、きれいに整理せずに残している。

服部真里子の短歌は、一首の中で遠いもの同士をつなげる力が強い。身近なものと天体、犬と呼び声、ニュースと身体、恋人の表情と遠い水面。並べられた言葉の距離が大きいのに、不思議と一首として閉じる。その閉じ方が、分かりやすい説明ではなく、読者の感覚の側で起きる。読んでいるこちらが、後から自分の中でつながりを探しに行くことになる。

短歌に慣れていない人は、最初の数ページで「意味を取らなければ」と身構えるかもしれない。けれど、この歌集は意味を一直線に追うより、まずは像を拾うほうがいい。プールの青さ、雪の白さ、地下の暗さ、手すりの冷たさ。そうした断片を拾っていくと、感情の説明より先に、身体の反応が来る。少し寒い、少し眩しい、少し遠い。その感覚がつかめれば、読み方はもう半分できている。

この本が合うのは、人生の節目にいる人だけではない。むしろ、日々はそれなりに続いているのに、心のどこかで「この場所にずっといるわけではない」と感じている人に向いている。転職、引っ越し、恋愛の終わり、家族との距離。大きな事件になる前の、名前のつかない違和感がある夜に読むと、歌の中の風景が妙に近づいてくる。

第一歌集でありながら、完成度は高い。ただし、親切な本ではない。読者の手を取って「ここでこう感じてください」と案内してくれるわけではない。一首の端に置かれた言葉が、そのまま風の中へ投げられるようなところがある。だからこそ、読む側にも余白が残る。分からない歌があることも含めて、この歌集の読書体験になる。

最初にこの本を置くのは、服部真里子の短歌がどれほど感情を直接言わずに感情へ届くかを、いちばん自然に体験できるからだ。『遠くの敵や硝子を』へ進む前に、この歌集で風景の広がりと一首の跳躍に慣れておくと、第二歌集の硬さや暗さも受け取りやすくなる。

読み終えると、見慣れた場所の奥行きが少し変わる。プールの水面、夜の道、電車の窓、風の通る空き地。そこに何かの象徴を無理に探すのではなく、ただ目の前の景色が一首ぶん深くなる。『行け広野へと』は、服部真里子の代表歌集としてだけでなく、現代短歌を読む身体を作る本でもある。

2. 遠くの敵や硝子を(書肆侃侃房/現代歌人シリーズ)

『遠くの敵や硝子を』は、第一歌集のあとに読むと、服部真里子の視線がどこへ移ったのかがよく分かる。『行け広野へと』が広い場所へ出ていく歌集だとすれば、こちらは硝子越しに世界を見ているような歌集だ。外は見える。けれど、すぐには触れられない。向こう側にあるものが、近いのか遠いのかも分からない。

2018年に刊行された第二歌集で、「現代歌人シリーズ」の一冊として読まれている。第一歌集の鮮烈さをそのまま繰り返すのではなく、言葉の質感が少し変わる。風の強い屋外から、光の反射する室内へ移ったような感覚がある。そこには洗濯物の冷たさ、水の気配、地下にこもる空気、ニュースの断片、敵という言葉の不穏さが漂っている。

タイトルの「遠くの敵」と「硝子」は、どちらも距離に関わる言葉だ。敵は遠くにいれば、むしろ輪郭を単純化できる。けれど硝子は近くにあっても隔てる。透明だからこそ見えてしまうし、見えているからこそ触れられない。この歌集では、そうした距離のねじれが何度も形を変えて現れる。

『行け広野へと』では、主体が広い場所へ投げ出されるような感覚が強かった。『遠くの敵や硝子を』では、世界そのものがもう少し複雑に折り重なる。目の前の生活と、遠くの出来事が切り離せない。社会のニュース、誰かの痛み、遠くの争い、近くの部屋の温度。遠いものを遠いままにしておけない人ほど、この歌集の重さを感じるはずだ。

ただし、この本は最初の一冊として万人向けではない。イメージの接続がさらに鋭くなり、一首の中で起きていることをすぐに言い換えられない場面が増える。分かりやすい共感を求めて読むと、少し跳ね返されるかもしれない。だが、その跳ね返される感じこそが、この歌集の大事な手触りでもある。

服部真里子の短歌には、比喩が飾りとして出てこない。何かを美しく言い換えるためではなく、現実を別の角度から切るために置かれている。『遠くの敵や硝子を』では、その切り口がいっそう硬い。硝子、雪、水仙、盗聴、地下駅、手の動き。ひとつひとつの語が、読者の中で小さく音を立てる。きれいな音ではなく、薄いものが割れる直前のような音だ。

この歌集が刺さるのは、気持ちをなだめたい時よりも、なだめられたくない時だと思う。世界の出来事に疲れているのに、無関係なふりもできない。誰かを愛することと、誰かを遠ざけることが、同じ場所で起きている。そんな状態の時に読むと、この本は優しく慰めるのではなく、こちらの複雑さを複雑なまま置いてくれる。

第一歌集より難しいが、難しさは閉じたものではない。何度か読んでいるうちに、最初はただ冷たかった言葉が、別の温度を持ちはじめる。敵という言葉の中に愛しやすさがあり、硝子という言葉の中に守るものと壊れるものが同居している。読者の側の時間が進むほど、歌の見え方も変わる。

『行け広野へと』と続けて読むと、服部真里子の歌が「若い感受性の鋭さ」だけでは語れないことがはっきりする。第一歌集の風景が外へ開いていたのに対し、第二歌集では外と内の境目そのものが問題になる。外部の出来事は本当に外部なのか。近くにいる人は本当に味方なのか。自分の感情は、自分だけのものなのか。そうした問いが、説明文ではなく歌の配置によって迫ってくる。

読むタイミングとしては、心に余裕がある日の昼よりも、少し疲れた夜のほうが合うかもしれない。部屋の明かりを落として、数首だけ読む。分からない歌は飛ばしていい。けれど、どこかで一首が急に立ち止まらせてくる。その一首が見つかると、『遠くの敵や硝子を』は急に個人的な本になる。

この本を後半に置くのは、服部真里子の短歌がどこまで世界へ伸びるのかを見届けるためだ。第一歌集だけでも十分に強い。けれど第二歌集を読むと、その強さが単なる鮮烈さではなく、時間の中で変化していく視線だったことが分かる。広野のあとに硝子を読む。その順番に、服部真里子を読む面白さがある。

3. あなたとわたしの短歌教室(山川出版社)

『あなたとわたしの短歌教室』は、歌集ではなく短歌の入門書だ。けれど、服部真里子を読む記事の中では、単なる補助教材として後ろに添えるだけではもったいない。歌集を読んで「どうしてこの一首はこんなふうに届くのだろう」と感じた人に、その仕組みを手の側から考えさせてくれる本だからだ。

本書は、服部真里子が行ってきた短歌講座をもとにした実践型の一冊で、短歌の基本から五つの課題へ進んでいく構成になっている。定型、字余り、字足らずといった基本を押さえながらも、ただルールを覚える本ではない。むしろ、世界を見る角度を少しずつ変えるための練習帳に近い。

短歌を作ろうとすると、多くの人が最初に「特別な出来事がない」と思う。大きな恋愛も、劇的な別れも、作品になるような事件もない。けれどこの本は、そこを出発点にしない。日常の中にある言葉のズレ、目に入ったものの順番、言い切らないことで生まれる空白。そういう小さな要素を、短歌の材料として拾い直していく。

良いところは、読者を「センスがある人」と「ない人」に分けないことだ。短歌には感性が必要だが、感性だけで作るものではない。見る、選ぶ、ずらす、削る、置く。そうした作業がある。この本は、その作業を過度に神秘化せず、しかし雑にも扱わない。創作の入口に立つ人にとって、この距離感はかなり心強い。

服部真里子の歌集を先に読んだ人にとっては、この本は逆光のように働く。『行け広野へと』で感じた一首の跳躍や、『遠くの敵や硝子を』で触れたイメージの硬さが、どこから来ているのかを考えるきっかけになる。もちろん、歌集の種明かしをしてくれる本ではない。けれど、自分で一首を作ろうとすると、読むだけでは見えなかった選択の細かさに気づく。

反対に、この本から入るのもありだ。短歌を読むことに苦手意識がある人は、先に作り方の側から触れたほうが、歌集の読み方がやわらかくなる場合がある。五・七・五・七・七という定型が、ただの数合わせではなく、言葉を曲げたり飛ばしたりするための器だと分かると、歌集を読む時の緊張が少しほどける。

本書が向いているのは、「短歌を作ってみたい」とはっきり思っている人だけではない。日記を書いても説明ばかりになってしまう人、SNSの短い言葉に疲れている人、自分の感情をそのまま書くと嘘っぽく感じてしまう人にも合う。短歌は短い形式だが、短いからこそ、全部を言わない練習になる。

『行け広野へと』や『遠くの敵や硝子を』を読んだあとにこの本を開くと、服部真里子の短歌が遠い才能の産物ではなく、言葉を扱う具体的な手つきの積み重ねとして見えてくる。もちろん、同じようには作れない。けれど、自分の一首を少しだけましにするための視点は持ち帰れる。

読む時は、通読するだけで終わらせないほうがいい。ノートを一冊用意して、課題に合わせて実際に書いてみる。うまくいかなくてもいい。むしろ、うまくいかないところに、自分がいつも使っている言葉の癖が出る。その癖に気づくことが、短歌を作ることの最初の収穫になる。

この本を3冊目に置くのは、歌集の読書を創作へつなげるためだ。代表歌集を味わい、第二歌集で視線の変化を追い、そのあとに短歌教室へ入る。すると、服部真里子を「読む対象」としてだけでなく、自分の言葉の使い方を変えてくれる案内役として受け取れる。現代短歌に長く付き合いたい人ほど、歌集と並べて置いておきたい一冊だ。

関連グッズ・サービス

短歌は、一気に読むより、数首ずつ戻って読むほうが体に残りやすい。関連サービスや読書環境は、必要なものだけ足せばいい。広告のように増やすより、歌集を開く時間を邪魔しないものを選びたい。

短歌の周辺を少し広げる

現代短歌のアンソロジー、歌人のエッセイ、詩や文学の周辺本をつまみ読みしたい時に使いやすい。服部真里子の歌集を読み終えたあと、同時代の歌人へ少し広げる入口になる。

Kindle Unlimited

耳から日本語のリズムに戻る

短歌そのものの朗読音源に限らず、詩や近現代文学を耳で聞くと、日本語の間や呼吸に意識が向く。歌集を開く前の準備運動として相性がいい。

Audible

夜に一首だけ読む環境をつくる

暗い部屋で少しだけ読むなら、電子書籍リーダーや温かい飲み物があると、読書の時間が細く続く。服部真里子の歌集は、長時間の読書より、眠る前に数首だけ読む習慣とも合う。

まとめ──広野、硝子、教室の順で読む

服部真里子を初めて読むなら、『行け広野へと』から入るのがいちばん自然だ。第一歌集には、都市の風景、若い身体の緊張、恋愛の熱と冷え、一首の中で遠いものをつなぐ跳躍がそろっている。服部短歌の呼吸に慣れるための入口として、まずこの本を開きたい。

そのあとで『遠くの敵や硝子を』へ進むと、視線の変化が見える。広い場所へ向かっていた身体が、硝子越しに世界を見つめる。外の出来事と内側の感情が切り離せなくなる。少し難しくなるが、第一歌集だけでは見えない服部真里子の深まりがここにある。

『あなたとわたしの短歌教室』は、歌集のあとに置くと創作への橋になる。逆に、短歌に苦手意識がある人は、この本から始めてもいい。作る側の視点を少し持つだけで、歌集の読み方は変わる。分からない歌を前にしても、言葉の置き方、余白の作り方、視線のずらし方に目が向くようになる。

  • まず一冊選ぶなら、『行け広野へと』。代表歌集として、服部真里子の入口になる。
  • 現代短歌の硬質なイメージや社会との距離を読みたいなら、『遠くの敵や硝子を』。
  • 自分でも短歌を作ってみたい、読み方を変えたいなら、『あなたとわたしの短歌教室』。

短歌は、分からない一首を抱えたまま読んでいい形式だ。むしろ、すぐに説明できない言葉ほど、あとから生活の中で戻ってくる。服部真里子の本は、その戻ってくる時間まで含めて読書になる。

FAQ

Q1. 服部真里子の本は、短歌初心者でも読める?

読める。ただし、小説のように筋を追って理解する本ではないので、最初から全首を分かろうとしないほうがいい。まずは『行け広野へと』を開き、目に残る風景や言葉だけを拾う読み方で十分だ。プール、雪、舟、犬、地下駅のような具体的なものから入ると、短歌の意味を無理に解説しなくても、感覚の側で受け取れる。

Q2. 『行け広野へと』と『遠くの敵や硝子を』はどちらから読むべき?

迷ったら『行け広野へと』から読むといい。第一歌集なので、服部真里子の言葉の跳躍や風景の広がりに慣れやすい。そのあとで『遠くの敵や硝子を』へ進むと、世界との距離の取り方が変わっていく流れが見える。詩や現代短歌に慣れていて、硬質なイメージの連なりを先に味わいたい人は、第二歌集から入っても面白い。

Q3. 『あなたとわたしの短歌教室』から読み始めてもいい?

問題ない。短歌を読むこと自体に苦手意識があるなら、先に作り方の本から入るほうが楽な場合もある。定型や課題を通して、短歌が「感性だけで書くもの」ではないと分かると、歌集を読む時の緊張がほどける。歌集を読んでから創作へ進む道も、この本から歌集へ戻る道も、どちらも自然だ。

Q4. 歌集は一気に読むべき?

一気に読まなくていい。むしろ、服部真里子の歌集は数首ずつ読むほうが合う。寝る前に一ページだけ、休日に気になる章だけ、前に印をつけた歌だけ読み直す。そういう読み方のほうが、一首が生活の中に残りやすい。短歌は短いが、読む時間まで短くしなくていい。

Q5. 服部真里子が好きなら、次に誰を読むといい?

短歌の自由さや読み方を広げたいなら穂村弘、物語性のある歌へ進みたいなら東直子、ポップな言葉の切れ味を見たいなら枡野浩一がつながりやすい。服部真里子の歌が持つ硬さや距離感とは違うが、並べて読むことで、現代短歌の幅が見えてくる。

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