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【吉行淳之介おすすめ本】性と孤独を描き尽くす小説&エッセイ・代表作17選

「性愛をまっすぐに描いた文学を読みたいけれど、いわゆる官能小説には惹かれない」。そんなときに必ず名前が浮かぶのが、吉行淳之介だ。戦後の都会を舞台に、性と死、孤独とユーモアを冷ややかに見つめ続けたこの作家の作品は、いま読んでも妙に生々しく、そして不思議と軽やかに体に入ってくる。

この記事では、吉行淳之介の代表的な小説・短編集・エッセイから17冊を厳選して紹介する。初期の赤線小説から円熟期のエッセイまで、どこから入っても「人間のいやらしさと可笑しさ」がじわじわ効いてくるはずだ。

 

 

吉行淳之介とは? 戦後の都会を描いた「第三の新人」の顔

吉行淳之介は1924年東京生まれ。戦後にデビューし、安岡章太郎・遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた作家の一人だ。都会的で醒めた文体で、性や病、死、退廃した空気を淡々と描き出すスタイルが特徴的で、戦後文学の一つの頂点として位置づけられている。

1954年、赤線地帯の娼婦と男の関係を描いた「驟雨」で第31回芥川賞を受賞し、文壇での地位を決定づけた。その後も「暗室」で谷崎潤一郎賞、「夕暮まで」で野間文芸賞、「星と月は天の穴」で芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、長編・短編・エッセイを問わず数々の名作を残している。

彼の作品世界の核にあるのは、戦争体験に根ざしたニヒリズムと、「人間関係に深くコミットしない」という、どこか諦めにも似た距離感だ。性愛もまた、その距離感の中で冷ややかに観察される。ところが不思議なことに、その冷えた視線がかえって人物たちの哀しさや可笑しさを際立たせ、読者の感情をじわじわ揺らしてくる。

また、エッセイストとしての顔も重要だ。猫や食べ物、ギャンブル、酒、文壇交遊録など、日常の些細な出来事を題材にしながら、どこか自分を突き放した眼差しとユーモアで綴る文章は、昭和の「粋な男」のイメージを今に伝えている。

吉行淳之介のおすすめ本17選

1. 原色の街・驟雨 (新潮文庫)

『原色の街・驟雨』は、吉行淳之介の初期代表作を収めた短編集で、なかでも芥川賞を受賞した「驟雨」は、彼の作家像を決定づけた一作だ。舞台は赤線地帯。恋愛をどこか冷笑的に見ている男が、一人の娼婦に対してだけ「愛」に似た感情を抱いてしまう。そのズレが、性と精神の関係をあぶり出していく。

戦後復興期の熱気と、底に沈殿した虚無感が同居する街の空気が、この短編集の大きな魅力だ。街の女たちは、決して不幸を嘆き叫ばない。淡々と体を売り、ささやかな生活を続けていく。一方で、そこに通う男たちの方がどこか間の抜けた感じで、欲望に従順でありながら、自分の人生にはどこか無責任でもある。その対比が、読んでいて妙にリアルに響く。

読みながら何度も感じるのは、「感情移入しきれない距離」の心地よさだ。登場人物に肩入れしすぎることもなく、かといって突き放しすぎるわけでもない。その塩梅が絶妙で、読後、じわじわ効いてくる。戦後文学の「必読」だけでなく、いま「恋愛の形」をうまくつかめないと感じている人にも刺さる一冊だと思う。

2. 暗室 (講談社文芸文庫)

『暗室』は谷崎潤一郎賞を受賞した中編で、不倫関係にある男女の情事と倦怠を通して、性と虚無の関係を描ききった作品だ。不倫小説と言ってしまうとそれまでだが、ここで描かれるのは「禁断の恋の炎」ではなく、むしろ燃え尽きた後の灰の冷たさに近い。都会のホテルや部屋の閉ざされた空間は、文字どおり「暗室」となって登場人物の心理を増幅させる。

恋愛の「ドラマ」を期待して読むと、むしろ肩透かしを食らうかもしれない。登場人物たちは、泣き叫んだりはしない。その代わり、どうにもならない退屈さや倦怠感が、じわじわ染み込んでくる。ときどき挟まる、どこか自虐的でシニカルな視線がまた効いていて、「ああこういう感じの関係って、いまの時代にも普通にあるよな」と身につまされる。

性と愛のズレ、肉体がつなぐもの/つなぎきれないものに興味がある人には、かなり刺さるはずだ。華やかなラブストーリーに疲れたとき、夜更けにひっそり読むと、暗がりの中で自分の過去の恋愛が少しだけ違った姿に見えてくる。

3. 夕暮まで (新潮文庫)

『夕暮まで』は、野間文芸賞を受賞した長編で、中年の男と若い処女の奇妙な関係を描いた作品だ。性機能の衰えと心の欲望のギャップを抱えた主人公が、若い女性と関係を結ぼうとしながらも、うまくいかない。そのもどかしさと滑稽さの中で、「老い」と「愛」の問題がねっとりと浮かび上がってくる。

タイトルの「夕暮」は、人生の時間帯そのもののメタファーのように感じられる。仕事や家庭、世間での役割を一通り経験し、ある程度の地位や安定は手に入れた男が、それでも満たされない。そんな「暮れなずむ時間」に、ふと差し込んでくる若い女の存在は、救いなのか、それとも残酷な鏡なのか。

読んでいると、主人公の言動に苛立ちつつも、完全には笑い飛ばせない自分に気づく。歳を重ねることの滑稽さと哀しさをここまで露骨に、しかしどこか品の良さを保ったまま描ける作家はそう多くない。中年以降の読者には、ときに痛すぎるかもしれない一冊だ。

4. 砂の上の植物群 (文春文庫)

『砂の上の植物群』は、タイトルのとおり「流砂のような現代社会に生きる人々」を描いた群像劇だ。安定しない地面の上に、なんとか根を張ろうとする植物たち。そのイメージが、愛や仕事や家族にしがみつきながらも、どこかで虚しさを感じている登場人物たちと重なっていく。

ここに出てくる人々は、決して声高に不幸を訴えない。むしろ、淡々と不倫をし、ギャンブルに通い、どうでもいい会話を重ねる。そのささやかな日常の隙間に、時折ふっと顔を出す虚無感や不安が、読者にはやけに生々しく感じられる。ささくれ立ったドラマではなく、「平熱のまま壊れていく」感じが、吉行らしい。

人生に大事件が起きているわけではないのに、なんとなく足元が覚束ない——そんな感覚を抱えているときに読むと、妙に落ち着く本だ。自分も含めた「砂の上の植物」の一つとして、他人の人生を覗き込むような読書体験になる。

5. 鞄の中身 (講談社文芸文庫)

『鞄の中身』は、読売文学賞を受賞した短編集で、日常のふとした瞬間に潜む恐怖や不安を、洗練された筆致で切り取った作品が並ぶ。表題作では、ささやかな違和感が少しずつ膨らみ、「鞄の中身」が象徴する秘密や不穏さが、じわじわと読者を追い詰めていく。

どの短編も、ホラーのような派手な恐怖はない。その代わり、「自分の生活の延長線上に、こういう出来事は普通に起こり得るな」と思わせるリアリティがある。人間関係のちょっとしたズレ、言葉の行き違い、過去の記憶のほころび。そのどれもが、静かに、しかし確実に不安を増幅させていく。

短編ごとにまったく別の味わいがあるので、通勤電車の一本分だけ、夜寝る前の15分だけ、という読み方にも向いている。「吉行淳之介の怖さ」をまず知りたいなら、この一冊から入るのはかなりおすすめだ。

6. 娼婦の部屋・不意の出来事 (新潮文庫)

『娼婦の部屋・不意の出来事』は、戦後すぐの赤線地帯を舞台にした短編を中心とする初期作品集だ。表題作「娼婦の部屋」では、娼婦とのやりとりが淡々と描かれていくが、その会話の隙間に、戦後の不安と日常への諦念のようなものが染み出してくる。

吉行の娼婦小説の特徴は、「かわいそうな女性を救済する物語」にはほとんどならないところにある。娼婦たちは、自分の境遇をもちろん理解しているが、そこから大逆転を狙ったりはしない。客の男たちもまた、彼女たちを救おうとはしない。その醒めた関係性が、かえって登場人物一人ひとりの生活感や生々しさを際立たせている。

性労働をめぐる議論がいまも続くなかで読むと、この作品集に描かれている距離感は、決して過去のものではないことに気づかされる。感傷に流されない冷静さと、人物への奇妙な親しみが同居した一冊だ。

7. 湿った空 乾いた空 (新潮文庫)

『湿った空 乾いた空』は、タイトルどおり「湿り」と「乾き」という感覚が全体を覆う短編集だ。雨上がりの空気や、からりと晴れた空の下の倦怠感など、気候や風景の変化と、人間の欲望や記憶が巧みに呼応している。

たとえば、湿度の高い夜に繰り返される情事は、どこか粘ついた後味を残す。一方、乾いた風が吹き抜ける昼下がりの場面では、人間関係もまた乾ききっていて、何も残らない感じがする。その「空気の描写」と「心の描写」をぴたりと合わせてくるのが、この本のいちばんの読みどころだ。

天気や季節の移ろいに敏感な人には、特に刺さる作品集だと思う。読んでいるうちに、自分のこれまでの恋愛や人間関係の記憶も、「あのときの湿度」や「空の色」とセットで蘇ってくる。

8. 星と月は天の穴 (講談社文芸文庫)

『星と月は天の穴』は、自身の少年期を下敷きに、性と死の目覚めを幻想的に描いた自伝的長編だ。芸術選奨文部大臣賞を受賞し、吉行文学の集大成の一つとされている。少年の視点から見た戦時下・戦後の風景が、「星」や「月」といったモチーフと結びつき、どこか夢のような手触りで立ち上がってくる。

「星と月は天の穴」というタイトル自体が、人間の祈りや願いをどこか冷笑しているようでもあり、同時に世界の向こう側への憧れを手放せない視線でもある。そのアンビバレンスが、少年の心の揺れにぴたりと重なる。単なる成長小説ではなく、「人が世界をどう見るようになっていくのか」という感覚そのものが描かれているような作品だ。

子どものころに感じていた不安や好奇心を、うまく言葉にできなかったまま大人になってしまった人ほど、この小説の痛さと優しさが響いてくると思う。吉行の長編の中でも、静かに長く余韻が残る一冊だ。

 

9. 私の文学放浪 (講談社文芸文庫)

『私の文学放浪』は、編集者時代の経験や、文壇バーでの交流、作家仲間との思い出を綴った回想エッセイだ。吉行淳之介という作家が、どんな場所を歩き、どんな人と酒を飲み、どんなふうに文学と関わってきたのかが、肩の力の抜けた文体で語られる。

戦後の文壇バー文化や、雑誌編集部の空気、当時の作家たちの距離感などが、読み物として単純に面白い。名前の挙がる作家たちの作品をすでに読んでいる人にとっては、別の角度から文学史を覗き込むような楽しさがあるし、まだ読んでいない人には「この人の本も読んでみようかな」という自然な読書欲を刺激してくる。

純文学は難しそうで近寄りがたい、と感じている人にこそおすすめしたい一冊だ。吉行の目を通して見ると、「文壇」というものも、少しだけ身近で滑稽で、人間臭い場所に見えてくる。

10. 男と女の子 (中公文庫)

『男と女の子』は、男女の微妙な距離感や、恋愛になりきらない関係を描いた掌篇・短編、小品エッセイなどを集めた一冊だ。タイトルから連想されるようなロマンチックな恋愛物語ではなく、「うまく言葉にならない感情」や「関係性の居心地の悪さ」が、軽妙な語り口で描かれている。

短い話が多いので、さらりと読めるが、読後に妙なざらつきが残る。男側の視点で描かれることが多いものの、そこに自己正当化はあまりない。むしろ、自分の情けなさや卑怯さを、どこか諦めを込めて見つめ直しているような語りが多い。その距離感が、「男の本音」「女の本音」といったわかりやすい図式とはまったく違う、もっと面倒くさいリアリティを感じさせる。

恋愛小説の「きれいな部分」に飽きてきた人にとっては、かなり心地よい苦味を持った一冊だ。カフェでコーヒーを飲みながら、1編ずつ摘むように読むと良い。

11. 焔の中 (新潮文庫)

『焔の中』は、幻覚や強迫観念にとらわれた人物たちを描く短編集で、吉行の「心理的リアリズム」がよく出ている作品だ。表題作では、現実と妄想の境目がじわじわ曖昧になり、読者は主人公の内面の「焔」に巻き込まれていく。

この本の怖さは、「どこからがおかしくなっているのか」がはっきりしないところにある。医学的な病名で説明される前の、「なんとなく調子が悪い」「自分だけ世界から浮いている気がする」という感覚が、言葉にならないまま積もっていき、いつの間にか手に負えない焔になっている。そこに吉行は安易な救いを与えないが、その冷たさがかえって正直だとも感じられる。

心の不調やメンタルヘルスに敏感な人には、刺さりすぎる部分もあるかもしれない。けれど、自分の内側の暗がりをそっと覗き込んでみたい夜には、強い読書体験をくれる本だ。

12. 街の底で (講談社文芸文庫)

『街の底で』は、戦後の歓楽街を舞台に、ある男と娼婦の関係を描いた長編で、吉行にとって初の新聞連載小説としても知られている。都会の「裏側」の風景と、そこに生きる人々の虚無感や疲労感が、淡々とした筆致で積み上げられていく。

主人公の佐竹は、娼婦に入れあげながらも、完全に「街の底」の住人になることをどこかで拒んでいる。一方で、地上の世界にしっかり根を張る覚悟も持てない。その中途半端さが、読者から見ると滑稽でもあり、痛々しくもある。作品全体を覆うのは、「どこにも居場所を持たない旅行者」のような感覚だ。

高度経済成長の前夜、社会全体が「明るい未来」に向かって進んでいくとき、その流れにうまく乗れない人間はどんな風景を見ていたのか。『街の底で』は、その問いに対する一つの答えでもある。現代の都市の片隅にも、この「街の底」はそのまま残っているのではないかと感じさせる。

13. 吉行淳之介ベスト・エッセイ (ちくま文庫)

『吉行淳之介ベスト・エッセイ』は、娘である俳優・吉行和子が選んだエッセイアンソロジーで、猫・酒・ギャンブル・旅・文壇交友など、吉行の魅力が立体的に伝わる一冊だ。小説とは違う、より素の声に近い文章が多く、著者の人柄に一番近づける本でもある。

面白いのは、どのエッセイにも「少し距離をおいた自己観察」が貫かれているところだ。自分の失敗談や癖のある習慣を、照れ隠しのユーモアとともに書きつつ、「それでも人間ってこういうものだよな」と静かに認めている感じがある。そのスタンスが、小説における人物造形ともきれいにつながっている。

吉行淳之介をまだ一冊も読んだことがない人にも、すでに何冊か読んでいる人にも、入り口としても総まとめとしても機能する便利な本だ。ここから気になったテーマや時期の文章を手がかりに、他の作品へ読み進めていくのも良い。

 

14.吉行淳之介掌篇全集 (中公文庫)

『吉行淳之介掌篇全集』は、一九六一年の「肥った客」から八三年の「夢の車輪」まで、わずか数ページの掌篇を五十篇も収めた、中公文庫オリジナルの集成だ。年代順に並べられているので、短篇の名手である吉行淳之介の文体や関心の移ろいが、そのまま時系列で辿れるつくりになっている。

掌篇という形式は、ストーリーを大きく展開させる余裕がない分、最初の一行や最後の一文にすべてを賭けるような緊張がある。この本を読んでいると、その緊張感がほとんど全篇に張りつめているのがわかる。ある話では、たったひとつの比喩だけで人物の性格が立ち上がり、別の話では、最後の一文でそれまでの読みをひっくり返される。長編でじわじわ効いてくる吉行とはまた別の、「刃物のような吉行」がここにはいる。

面白いのは、性愛や虚無といったおなじみのモチーフが、掌篇という器に入ることで、むしろ日常の癖や癇癪のように見えてくるところだ。重大な事件が起きなくても、人はふとした拍子に取り返しのつかない決断をしてしまう。その一瞬だけを切り取って、あとのドロドロした後始末を、あえて書かずに放り出してしまう感じが心地よい。

通しで読むと、吉行の中にある「世界の見え方」が少しずつ変化していくのもわかる。初期の作品には戦後の退廃や都市のざらついた空気が濃く、後期になるほど、夢と現実の境目や、生と死の距離感がゆるやかに溶け合っていく。掌篇は一つひとつが軽いのに、五十篇を読み終えるころには、長編を数冊読み切ったような「読んだ」という充足感が残る。

忙しい日々の合間に、電車一本分だけ読む、眠る前の数分だけ開く、といった付き合い方にも向いている。長編からではなく、まずは吉行の「一撃」のような文章に触れてみたい人には、格好の入り口になる一冊だと思う。

15.吉行淳之介娼婦小説集成 (中公文庫 よ 17-14)

『吉行淳之介娼婦小説集成』は、いわば吉行版「赤線文学」の決定版だ。赤線地帯の娼婦たちを描いた全十篇に、自作の舞台を振り返るエッセイ「私の小説の舞台再訪」「赤線という名の不死鳥」が付された構成で、戦後という時代と、そこで生きた女たちの姿が一冊の中に濃縮されている。

ここに出てくる娼婦たちは、どれも「救いを求める可哀想な女」の記号にはならない。彼女たちは、疲れているし、運も悪いし、たぶん社会からもひどく搾取されている。それでも、自分の状況をどこか冷静に把握していて、ときに客の男よりも現実的だったりする。その強さと脆さの同居が、読んでいて胸に刺さる。

一方で、彼女たちのもとを訪れる男たちが、これまたどうしようもなく情けない。金を払っている側のくせに、どこかで「慰めてほしい」と甘えていて、相手の生活の重さには最後まで目を向けない。その卑小さを、吉行は決して声高には糾弾しない。ただ、冷ややかに、しかし妙に愛情深く観察している。その視線のおかげで、読者は男たちを笑い飛ばすことも、完全に嫌悪することもできず、奇妙な共感の中に置かれてしまう。

巻末のエッセイでは、赤線廃止後の街の変化や、自分が書いてきた「娼婦小説」を振り返る吉行の姿がある。作品だけではわからない時代背景がそこで語られ、フィクションと現実が静かに結びついていく。ある種の社会派ルポよりもむしろ、生々しく戦後を感じさせる一冊だ。

いまの性風俗をめぐる議論と重ねながら読むと、「赤線」という制度が消えても、そこにあった力関係やまなざしは形を変えて続いていることに気づかされる。歴史資料としてではなく、現在進行形の問題を考えるための物語としても読み返す価値がある本だと思う。

16.贋食物誌 (中公文庫 よ 17-12)

『贋食物誌』は、夕刊フジに連載された食べ物エッセイを中心にまとめた一冊だ。といっても、美食ガイドでもグルメ礼賛でもない。ラーメン、カレー、缶詰、安酒のつまみ……そんな身近な食べ物を入口に、人間の見栄や欲望、しみったれた矜持が軽妙に語られていく。そこに山藤章二のイラストが組み合わさっていて、紙面全体がどこか悪ふざけじみた愉快さで満ちている。

面白いのは、吉行が「何を食べるか」よりも、「どう食べ、どう語るか」にずっと興味を持っているように見えるところだ。高級料理店に行っても、その場にいる客の挙動が気になって仕方がないし、安い立ち食い蕎麦に入れば、そこで交わされる会話の微妙な間合いに耳を傾けてしまう。料理そのものの描写よりも、その周囲にある人間模様に目が行ってしまうのが、いかにも吉行らしい。

「贋食物」というタイトルには、偽物の食べ物という意味以上に、「本物らしさにこだわる食通」への軽い冷笑や、自分自身の食へのこだわりをどこかで笑っている感じがにじんでいる。グルメ番組やSNSの「映える食」文化に少し疲れたときにこの本を開くと、肩の力が抜ける。うまいものをありがたがって食べるだけが正解ではないし、「いまこの瞬間、自分が食べたいものを食べる」というささやかな欲望だって十分尊い、というメッセージを、照れ隠ししながら差し出してくる本だ。

食べ物エッセイが好きな人はもちろん、外食のたびに「この金の使い方でよかったのか」と心の中で計算してしまうタイプの人にも、妙に刺さると思う。ページをめくるたびに、自分の食生活をちょっと客観視したくなる一冊だ。

17.菓子祭・夢の車輪 (講談社文芸文庫)

『菓子祭・夢の車輪』は、単行本『赤い歳月』から二篇、『菓子祭』から十三篇、そして文庫では初収録となる「夢の車輪」全十二篇を合わせた、計二十七篇からなる短篇集だ。現実と夢の壁をあたかもないかのように行き来しながら、男と女の関係や、生と死の境目が描かれていく。『砂の上の植物群』『暗室』『鞄の中身』の達成のうえに位置づけられる、短篇の名手としての吉行の力量が、端々まで行き渡った一冊でもある。

前半に置かれた作品群では、戦後の都市を背景にした、どこか湿った人間関係が多く描かれる。商店街の片隅や、さびれたバー、古びたアパートの一室といった小さな空間のなかで、人々はささやかにズルをし、誰かを裏切り、あるいは自分をごまかしながら生きている。そのなかにふと紛れ込む夢や幻覚のようなイメージが、現実の方をむしろ疑わしく見せてくる。

後半の「夢の車輪」連作に近づくにつれて、現実と夢の境界はさらに曖昧になる。夢の中で出会った人物が現実にも現れたり、逆に現実での出来事が夢のように手触りなく過ぎ去っていったりする。その曖昧さは、単なる幻想小説というより、「人生を振り返ったとき、何が現実で何が夢だったのか分からなくなる」という感覚によく似ている。

一篇一篇は読みやすい長さだが、通しで読むと「この世界の方が現実だったのかもしれない」と思わされる瞬間が何度かある。現実の側がだんだんと色褪せ、物語の側が妙に鮮やかになっていく。その反転の感覚が、この本のいちばんの魅力だと思う。

吉行の長編やエッセイをすでに読んでいる人にとっては、「こういう短篇も書いていたのか」と世界の広がりを感じられる一冊だし、短篇から作家の全体像を掴みたい人にとっても、格好のショーケースになる。現実に少し飽きた夜に、気になるタイトルの一篇だけをつまみ読みする、という付き合い方がよく似合う本だ。

 

関連グッズ・サービス

本を読んだあとの余韻を、日常の中でじっくり味わうには、読書まわりのツールを整えておくといい。吉行淳之介の作品のように、静かに深く染み込んでくる本とは特に相性が良い。

たとえば電子書籍で持ち歩いておきたいなら、

Kindle Unlimited

を使えば、文庫やエッセイを気軽に試し読みしながら、自分に合う作品を探していける。紙と電子を行き来しながら読むと、長編も意外とするっと読み進められる。

耳から文学世界に浸かりたいなら、

Audible

で朗読版の作品や関連作家の本を流しておくと、散歩や家事の時間がそのまま「文学の時間」に変わる。吉行作品のしっとりした文体は、耳で聴いてもよく映えるタイプだ。

あとは、着心地のいいルームウェアや、手に馴染むマグカップ、少し香りの強いコーヒーやハーブティーを一つ決めておくと、「これを用意したら吉行を読む時間」というスイッチにもなる。物としては大げさでなくても、そうした小さな儀式が、読書の幸福度をぐっと上げてくれる。

FAQ(よくある質問)

Q1. 吉行淳之介はどの一冊から読むのがいちばんおすすめ?

入門としていちばんバランスが良いのは、やはり芥川賞作「驟雨」を含む『原色の街・驟雨』だと思う。戦後の赤線地帯というやや特殊な舞台ではあるが、性と愛、孤独とユーモアのバランスが吉行らしく、短編なのでまず試しやすい。長編のドラマ性を味わいたいなら『夕暮まで』、人柄から入りたいなら『吉行淳之介ベスト・エッセイ』から始めるのもおすすめだ。

Q2. 性描写が多そうで少し構えてしまう。読んでいてきつくない?

たしかに多くの作品で性が前面に出てくるが、いわゆる露骨な「描写の激しさ」で押してくるタイプではない。むしろ、性を通して人間関係の距離感や孤独、虚無感を描こうとしているので、生々しさはあっても、読んでいて嫌悪感一色で満たされることは少ない。もし不安なら、まずはエッセイ集の『軽薄な天使』『贋食物マニア』、猫エッセイの『恐怖の猫』あたりから入ると、作家のユーモアと距離感に慣れていける。

Q3. 昭和の作家というイメージが強いけれど、いま読んでも楽しめる?

作品に登場する街の風景や風俗は、もちろん昭和のものだ。ただ、そこで描かれている人間関係の息苦しさや、社会の流れにうまく乗れない人の孤独は、現代の都市にそのまま重ねられる。むしろ、SNSやネットがある分だけ、いまのほうが「孤独の質」はねじれているかもしれない。その意味で、吉行の登場人物たちの諦念やユーモアは、現代の読者にとってもリアルに響くはずだ。

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